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デヴィッド・ボウイのこと
1月10日。BBCの記事を見て、デヴィッド・ボウイの記事がたくさん。ああ、そうか、彼が天国に召されてからちょうど5年が経つのだ・・・と気づきました。この時点でメランコリックモード突入。その気分でこれを書き始めたので暗くなるかも。笑
私はデヴィッド・ボウイのファンだったわけではないのですが、昔からすごく意識していました。中学校の頃に、彼が私と同じ誕生日だと知ったときから。私の勝手で一方的な親近感です。笑
ファンではなかったけれど、その凄さは感じてた。ちょうど5年前の今日(1月10日にこれを書いてます)、衝撃的な諜報が流れました。69才の誕生日の2日後。
ああ、あのボウイが69才で亡くなってしまった。
なんの根拠もありませんが、そのとき、「私も69才で死ぬのかも」・・・そんな思いがよぎりました。それ以来、69才で死ぬことが頭の中にあります。
自分でも訳わかりません。笑
明日死んでもいい
20才代のころからずっと思ってきたことがあります。
「明日死んでもいい」と。
死にたいと思っていたわけではないです。むしろ逆。でも、明日死んでも後悔はしない。いつ死ぬにしても、やり残したことはいっぱいあります。きっと100才まで生きても。笑
それでも、それまで生きてきて、自分がやってきたことに後悔はない。明日死んでもいいように、毎日めいっぱい生きていることには自負がある。だから死ぬことに恐れはない。後悔はしない。そう揺らぎのない思いがあります。
ただ、息子が生まれてからは、とりあえず、息子たちが独立するまでは死ぬもんか、と決めてます。人間が勝手に決められることじゃないけど、そう決意してます。でも、それでも、やっぱり死ぬことに恐れはありません。
逆に、長生きしすぎてしまったら嫌だなあ。
仕事人生折り返し地点
デヴィッド・ボウイが亡くなった年、私が46才で、ちょうど仕事人生の折り返し地点だと気づきました。大学卒業して働き始めてから24年で46才。69才で死ぬまで働くとして、あと23年。
半分がすぎてしまったことに一瞬焦りました。でも、今までやってきたこと、成し遂げてきたことを考えたら、同じだけの時間があれば、また結構たくさんのことが成し遂げられるはず。そう思ったら希望が湧いてきました。そのあたりから人生の残り時間を意識して生きるようになりました。
69才で死ぬ・・・なんて思ってますが、まあ、健康に生きてるし、タバコも吸ったことないし、癌の家系でもないし、体にいいものを食べて薬も飲まずに生きてるし、なんだかんだ言ってもっと生きる可能性の方が高いでしょう。
ほんと、寿命のことなんてわからない。人間の一存で決められることではない。でも、なんだろう。なんで69才って感じてるのか、自分でもわからないけれど、なんかあるんでしょうね。
まあ、死ぬ死ぬという人ほど長生きするものです。きっと私も死ぬ死ぬ詐欺。笑
若い頃から「明日死んでもいい」と思っていたけれど、「今日死んでもいい」とは思わなかった。「明日」という日は永遠に来ない。ま、死ぬとは思ってないってことですね。笑
死ぬときの唯一の希望
人智学を学んでいて、死が終わりでないと確信しているので、死ぬことは怖くないです。シュタイナーが教えてくれた、死んだあとに通り過ぎなければならないさまざまなプロセスはちょっと怖いですが。(知りたい人はシュタイナーの「神智学」とか「神秘学概論」をお読みください。)
でも、ひとつ、死ぬ瞬間には、夫の腕の中で息絶えたい・・・という願いがあります。ヨボヨボになったおばあちゃんの私が、ヨレヨレのおじいちゃんの夫に抱きしめられてるイメージ。
もうこのイメージからして69才どころか90才くらい。矛盾ありすぎです。苦笑
それまで夫婦円満でいられるよう、先のことより今を大事に生きるとしましょう。笑
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