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シュタイナー子育てで良かったこと(2)〜窮屈にならない教育

二人の息子をシュタイナー教育で育ててきた私。シュタイナー教師であり、シュタイナーママであり、シュタイナーファミリーの石川華代の、子育て終了の振り返りです。

↓第一話

シュタイナー学校でのシュタイナー教育、自宅でのシュタイナー家庭教育。それを通して良かったと思えること。2つめ。

今日は、母親目線です。

それは、窮屈でなかったということ。自分らしくしていてOKだった場所だったということ。

一般に、学校へ行くと、その学年での学習到達度があって、それからはずれていると遅れているということになったりする。
体の成長もそう。基準からはずれていると、ダメ扱い。
基準とはいわなくても、テストの点のプレッシャーとかもある。
学校で、みんなと違うことをやると変な目で見られるとか。
できすぎちゃっても、枠からはみ出しちゃって居心地悪くなるとか。

私自身のことを振り返ってみると、私はすごく萎縮して学校生活を送っていた。私は物静かで、内向的で、授業中発言なんてできないし、一部の数少ないクラスメートとしか話せない子だった。

学校って、「明るくはきはきと発言する」ことが良いとみなされる。リーダーシップがとれるとか、誰とでも仲良くするとか、社交的であることが褒められる。私はそれができなかった。私は、正解をわかっていても手を挙げられない。こわくて。声を出すこともこわい。もしも変なこと言って笑われるのも怖い。

学校生活で、発言しない=理解していない、と、短絡的に判断されることも現実としてある。本当は、口が動いていない分、ものすごくよく観察していて、実はおとなしい子のほうがよくわかっていたりする。だいたい、頭の中のことを口にしないからといって、頭の中が空っぽだっていうことにはならない。

「元気に」「明るく」ができなかった私は、それだけでプレッシャーで、クラスの中でどんどん小さくなっていき、よけいに発言できなくなっていった。発言できない自分を責めて苦しんで、発言しないのはわかっていないからと思われてまた苦しんで、消極的だ、暗い、と言われて先生からもクラスメートからも評価してもらえなくてもっと苦しんだ。

先生にも、クラスメートにも、変な人だと思われないように、気遣いながら生きることをすっかり習慣化していった。自分の思ったことではなく、先生が期待するように行動することがいいことだと信じて。それが当たり前、そうするのがいいことだと思い込んで。

・・・窮屈だったなあ。苦しかったなあ。ああ、あれから40年たっても、思い出しただけで目がじわじわと熱くなる・・・。



シュタイナー学校では、そういうのが、とても少なかったと思うのです。

静かで発言しないからといって、理解していないとはみなされない。テストの点で判断されることもない。テストがない分、先生は、ひとりひとりの生徒そのままをものすごく見てくれている。ノートのようす、作品、授業中のやりとりから、学習到達度は十分みてとれる。

朝、握手をして挨拶をしただけでも、表情がいつもと違っていたな、とか、手の握り具合や温度がいつもと違っていたな、とか。足が重いような歩き方をする、飛ぶように歩く、頭が大きくて夢みがち、視線、体の動き・・・。先生は、そんなことを毎日、何年にもわたって観察してくれていて、子どもの学習、体の発育、心の成長・・・人間全体をよく見ていてくれる。

そこには、「3年生だからこのくらいはできないとダメ」とか「明るく発言するべき!」みたいな固定概念や決まった基準で人間を判断するのとは全く違う見方がある。

うちの長男は小4で「重度の学習障害」と診断されたけれど、レッテルをはられることなく、長男らしさを見てもらえたと思う。ディスレキシアで読み書きは困難だけど、アートや芸術の作品や制作過程をみると、発想力も思考力もあることが見て取れる。勉強の点では他の子より遅れているのだけど、今までの成長の仕方や、今の状態をみると、これから育つことが見受けられる。一定の基準にははまっていないけれど、彼は大丈夫だと見守りつつ、その時点での成長に大切なことをやってくれたと思う。

人は、それぞれ違う。そういう診断は、子どもの個を理解するのに役立てるけれど、「この子は学習障害があるからXXX」とかいう型にはめるような視点はない。

そして小4で診断され、その後、先生に「今はちょっと遅いけど、この子は大丈夫。」と太鼓判をおされたとおりに、中学、高校と学年が上がるにつれて、自分の才能を開花させる様子が見えてきた。学習障害も問題にならなくなった。

学校の懇談会などで先生と話すと、いつも私は泣きそうになっていた。

先生の話してくれる息子たちのようすが、「ここまで見てくれているんだ」と驚くほどの詳しさ、深さ。「ああ、先生はわかってくれてる」と確信できる安心感。ロボットのように型にはめて見るのではなく、ひとりひとりの人間として様子を見てくれている。人間として尊重してもらっているという実感。それだけ息子のことを愛情が根底にありながら、冷静に教育のプロとして見守ってくれている。その、先生の愛情にふれるだけで、親の私が、涙がじわじわ溢れる。


こうやって子どもを愛を持って見てくれている視線は、親の私に対しても強制している感じがなかった。「大丈夫」「そのままでいいんですよ」って言ってくれている感じ。

テストの点で判断されたりしたら、親も萎縮するじゃないですか。肩身が狭いというか。学校で枠からはみだしてそれを指摘されたら、親もはみ出した気になって責められている気になったり。

シュタイナー学校では、子どもを認めてもらったように、親も認めてもらえたんだと思う。先生や他の保護者の視線を伺う必要もなく、自分らしく子育てできた。


子どもとか親とか、そんな立場を超えて、人間を見る目が、一般の社会とまるで違う世界だった。



もちろん、これは、イギリスやドイツなどの国民性もあり、日本ではちょっと事情が違うこともあると思う。でも、シュタイナー教育の根底に、ひとりひとりの個を大切にするものの見方は確実にあるのです。





こちらのニューズレターでも、いろいろ書いています。

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かよ|ロンドン在住、楽しく人生をクリエイトするシュタイナー教師&経営者 石川華代
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