『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第137回 第104章 初夏以降の札幌 (前半)
道内各地ではその後、人々の多くはつい最近まで冬があったことさえ愚かにも急速に忘れて行き、赤紫に近い独特の色彩と芳香のライラック、さらに他の様々な色調の花々が次々に忙しく入れ替わったり一部の開花時期が重なったりしながら咲いて行く。
空の見せかけの明るさに関わらず、時にひどく気温が下がることもある。北に憧れて移住してきた人々や、晴れて道内に進学を果たした紅顔の学生たちが、足を掬われて理不尽な経過で時ならぬ風邪を引いてしまうのがこの時期なのである。
「寒いなあ今日は。今は一体いつの季節なんだろう? 北海道には四季じゃなくてKurt Vonnegutの言う6つの季節があるのだろうか。もしそうなら、今はまだspringじゃなくて、その1つ手前のunlocking(解錠)だな」
皮肉なことに冬は誰もが用心しているので、あまり風邪は引かずに済む。それに、東京その他では冬の暖房は最近までその場しのぎの不十分な気休めに過ぎなかったが(想像の暖房共同体)、北海道では凍死を避けるために、家やマンションを設計する時点から断熱材を厚く入れることを基本とする十分な暖房設備を心がけ、竣工後も毎年かなりの費用をかけて本格的な対策を施している家庭が一般的である。
19世紀半ば以降の日本人による本格的な開拓開始以前の原始林とゆるやかな高低の地勢を基本的に維持している北海道大学附属植物園(正式名称は別)は、春の初めと秋の終わりを画するふたつの国民の休日の間、すなわち、昭和天皇の誕生日を記念していた旧・天皇誕生日である4月29日から文化の日の11月3日まで夏期開園期間となっている。(冬期は温室しか見ることができないが、それでも、外と違ってむっとする高湿の暖気の中、椰子の木や蘭、バナナ、サボテンなどに接して、しばしの解放感は味わえる。なーつよ来い、今すぐ来い)。このかつて北側の道路に桑園や円山公園につながる東西方向の市電が走っていた、ほぼ正方形の敷地内の散策を四国八十八箇所に喩えると、東側にある正門から入って、園内を「左打ち」の時計回りで巡るか、「右打ち」の反時計回りで見て回るかは、いったん習慣化すると心理的な閾値が限りなく高く固定してしまっており、なかなか逆の方向に変えてみることができない。別に変える必要はどこにもないのだが。
おおざっぱに言って、この6ヶ月強の間、札幌では自転車に安全に乗れる。春の到来も年々にじり寄る形で早まってきており、3月初旬でも自転車に乗ることができる年さえある。以前一時的な温暖化が異常に早かった年には、雪祭りの前の2月6日に札幌市南区の真駒内から支笏湖までの車道の大部分が露出乾燥していて、ロードバイクの集団が時ならぬトレーニングを敢行していることがあった。この数日後、再び雪が戻ってきたのである。札幌は北緯43度にあるが、こうした世界的な気候の大変動から、実質的に2度ほど南下して津軽海峡付近にあるかのような実感がある。遠い未来には、露地物のパイナップル産地といえば札幌や岩見沢というようになるかも知れない。
木々の葉はいわば見習い段階の早緑から次第に濃い緑、「本ちゃん」の緑に変わって行く。東京の3分の2しか年降水量がなく、地面も空気も乾いた日々の続く5月の札幌では、一雨の効果は目に見えて大きい。水彩画に筆を加えて行くように、一筆一筆、いや一雨一雨光景は豊かさを増して行く。高低に大きな差のある雨傘の花々が街に咲いては揺れて行く(シェルブール三度笠。どちら様も、面倒見たようっ)。
東西南北の碁盤の目の通りに区切られた狭い学区内の下校途中に雨が止んだのに気付かずに傘をしっかり持ったまま、何か本人たちにとっては重要なお喋りに興じながら歩いて行く小学生たちが、赤信号のたびに少し数がまとまりかけてはまた散っていく。おやつが何か気になりだしたのか、塾や習い事のためか、にわかに走り出して自宅に急ぐ子たち。
おじいちゃん、おばあちゃんに買ってもらったランドセルの中身を歩道に落とすなよ。義理堅い家庭では、児童は両方の祖父母からもらった高級ランドセルを体の前後ろに2つ身につけて登下校させられている。顔が埋まって、前からも後ろからも見えなくなっている。
「どこの塹壕から双眼鏡で見張られているか分からないわよ」
「こっち来て、かあさん。今日あいつ、敵のランドセルしてるぞ。何て恩知らずなんだ。うちで買ってやったのは気に入らないのか。12万円もしたんだぞ。今すぐ電話してみろ」
「そういうのは自分でかけてくださいね」
第104章 初夏以降の札幌(後半)https://note.com/kayatan555/n/nc5a4c3dd478aに続く。(全175章まであります)。
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