『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第172回 第138章 祖父の学んだベルリン
ユグノーを受け容れたため、このベルリンの人口の3分の1がフランス人だった時代もある。フリードリッヒ大王もヴォルテールとフランス語で書簡のやり取りをしていた。現在の英語のようなものである。ポツダムのサン・スーシ宮殿など、フランスの影響は今もあちこちにはっきりと残っている。ちなみに、ドイツ語のフリードリッヒはフランス語ではフレデリクであり、同じ綴りなのに、ドイツ語読みのヨーアヒムはフランス語ではジョアシャンとなる。
私の祖父は、ベルリン時代にはヨーロッパ最大の大学病院であるシャリテ病院で研究をしていた。ドイツのノーベル医学・生理学賞受賞者の半数は、この病院所属の医師・研究者たちなのだ。
第三帝国首都が戦争で破壊されたので、祖父が実際に歩いた道が残っているのかどうか確かめようがない。だが、シュプレー川は当時も流れていたし、ウンター・デン・リンデン通りも場所は変わっていないから、少なくともこの比較的狭い緑の道は歩いたに違いない。爺ちゃん、もし爺ちゃんがドイツじゃなくてアメリカに医学留学していたら、ボクの一家はアメリカ人になっていたんじゃないかな。だったら、ボクの帆船を壊されることもなくて済んだんじゃないかな。銃弾で殺されていたかも知れないけれど。
再統一後、ドイツは堂々たる大国になっており、ベルリンは行くたびに大きく変貌している。一瞬も瞬きさえしたくなくなるほど面白い街なのである。何台もの自転車が連続して中・高速で疾駆して行く自転車専用道路帯を併設した歩道を歩いていても、大声で歌いたくなる。ベルリン、ベルリン、それはベルーリーンー。あの巨大都市のあちこちを移動していると、札幌での生活を一時的にすべて放り投げて(あとはよろしく! どうせみんな死ぬけん)数年間住み着いてみたくなる。これはまるで石川啄木がわずか2週間しか滞在しなかった札幌で好印象を得て、そのうち1、2年住んでみたいものだ、と希望を綴っていた逸話にも通ずる感情である。
ここで重要な人生訓がある。「そのうち」は決して当然には実現できない。何か憧れを抱いたら、その100分の5でも「今年」実現しようと、具体的な努力を「今すぐ」始めなければならない。すると、あーら不思議。もちろんいつもではないが、あなたのその真摯な眼差しと奮闘振りに惚れ込んで、時には規則を曲げてさえあなたに協力しようとする人々が現れてくるだろう。
私が向かっていたSバーンの駅は1930年代後半に建設されたもので、ここまで無骨にしなくてもいいだろうと言いたくなるほどドイツ的に頑丈な設計、素材、構造に見える。米英各航空部隊による昼夜兼行の空爆ないしソ連軍の重戦車による砲撃の被害を一部受けていたか否かは駅員に尋ねれば分かるかも知れないが、そこまでしている時間はない。仏典にもあるように、一幅の絵画にさえ詳細があるのだ。
この古物市に入る前までにすっかり酒が醒めていて良かった。おかげで、この高校生といくつか面白い、他ではできっこないお喋りを楽しむことができた。外国語学習の南極越冬隊員のようなひたむきな努力と苦労は、何万倍にもなって報われる。期待していなかったサボテンが開花するようなものである。匿名の人間同士のほんの短時間だけの親しさ、笑顔での別れのほろ苦さ。国際的な大都市の醍醐味である。2度とあの相手に会うことはないのだろう。
さあてと、スーパーでビールを買ってホテルに戻ろう。日本の3分の1の値段だ。おねしょなんかしませんように(そのうちやるようになるんだろうな)。してしまったら、ホテルの窓からシーツをバッと張って滑空して逃げよう。モモンガだ浄。ゲーテが仕事を放り投げて一路イタリアを目指したように、延々とアルプスを目指して南に低空飛行を続けて、国境を越えて無事スイス国内に着陸することができるかな。(La Grande illusion=『大いなる幻影』)。
私が小学生のころ、父は医学研究のため回数は少なかったが海外出張に行っていた。おそらく私が、「ボクもよその国見てみたい。今度連れてって」とでもせがんだのであろう。父は答えた。
「今は本人が嫌と言っても外国に行かされる時代だから、そのうち自分で行けるだろう。父さんは仕事で行っている。悪いけれどもお前の分の費用までは研究費で出せない。そうだ、ひとついいことを覚えておきなさい。外国に行くときは汚い格好をして行きなさい。日本人は金を持っていて、しかもおとなしいと思われて襲われる危険がある。父さんもサンディエゴとローマで危ない目に遭った。現地生まれで、空手か何かの道場を経営していそうなアジア人と思われるのが一番安全だろう。と言ってもだな、身なりが汚な過ぎると飛行機に乗っている間中肩身が狭いだろうし、おみゃーに喰わせてやる機内食はにゃーずらと言われたり、事故があったときに無視されて救助されないかも知れないから、訂正だな。普段着に毛の生えたぐらいが無難なところだ。海外に行けるようになったら、ぜひともそうしなさい」
と言うわけで、そのドイツ行きの時も、病院のスタッフには見られたくない程度のぱっとしない服装で出かけた。
「あら、せんせ、そんな格好して。医師免許剥奪されたんですか?」
(たらーり)。
「最低限、軽犯罪法に触れない程度に体の表面を被っておく必要があるぞ、分かってるか。真夏に蒸れても、間違っても股の部分を切り抜いたズボンで行くなよ。危なそうな行き先だったら、学ランを着たネコの格好で鉢巻きをして、金属バットを持って徒党を組んで行け」
(うるさい兄からの余計なアドバイス。誰がそんなアホな格好で歩くだろうか。野郎、弟だと思って、いつまでもなめンなよ)。
しかし、もっとマシな服装をしていさえしていれば、あの時、あのコと何とかなったんじゃないだろうか(くすん)という事態は突然やってくる。予見は無理でござる。Nanni Moretti(ナンニ・モレッティ)の映画『息子の部屋』(La stanza del figlio)にも、「泥棒に入られることが事前に分かっていたら、誰も泥棒に入られない」という印象的な台詞があった。
この木陰の市でも、普段着のままではなくて、タキシードをレンタルして、花束を持って颯爽と参上したい「まぶい」女性たちのやっている露店がいくつかあった。(くすん、くすん、プスン、プスン。恨むわぁ、あたし)。
「私こそがあなたの白馬の王子さまでやんす」
中央アジアから来たこの男子高校生から買ったラピスラズリを思わせる色調のグラスは、一体いつごろどこの国で作られたか判然としない。まさか、どこかの工房で製造された後、何かの理由でドイツ最大の島であるリューゲン島付近の海に沈んで、100年以上も経ってから、たまたまニシン漁の網に引っかかって引き上げられ、骨董品趣味のヴァグナー好きの貴族の目に止まり、などという遍歴の代物ではないだろう。何十年も前にKDWの台所用品売り場で売られていただけなのかも知れない。手の平にしっかりと収まり、適度な重さなので浜に来ると好んでこのグラスを使って葡萄酒を飲んでいる。幸いまだ1つも割れていない。KDWの黒い布製トートバッグは軽くて使いやすい。今度ベルリンに行ったら沢山買って来よう。
道内各地に比較的新しいぶどう園がいくつもできている。結構なことである。日本全国で、パンの消費量が米の消費量を上回った。私の知り合いのアメリカ人たちは、日本のパンが世界一うまい、と唸っている。そのうちに道内のワインの生産量が日本酒の生産量を凌駕する日も来るのではないだろうか。こうしたワイナリーを訪れる人たちは、写真を撮るときに背景に何か日本文字を入れておかなければ、後から写真だけを見る知り合いに見せてもどこか他の外国の風景と疑われるだろう。
第139章 ペンキ塗り、ヨットに命名 https://note.com/kayatan555/n/na3e9cebb2e13 に続く。(全175章まであります)。
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