見出し画像

『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第38回 第32章 マリーナ、クルーザー

 籠目マリーナにはゲートがあり、上部に梵語で「犬とビンボー人とあなたは入るべからず」と書いてある、そうである。すると誰も入れないのではないか。
「いいえ、あちきはあなたではなくて、そなたでありんす」
 たいていの人間はこの文字が解読できない。なぜ梵語にしたのかというと、侵入しようとする人間はこの不吉な外観の文字を見た瞬間に身震いして去って行くからなのだそうである。
「防犯効果抜群よ」
 確かに墓場みたいな感じだよねえ。もちろん、ゲート前に現れる人間の画像は全員監視カメラに収められている。このお嬢は13桁もの暗証番号を素早く打ち込んだ。ここは眉毛ぱたぱた方式ではなかったのだ。だが、ひょっとすると、どんな番号でも13桁でありさえすれば解錠されるように設定してあったのかも知れない。13という数字は何となく避けませんか。ボクには判読できない文字を連ねた検問所を過ぎてウッドデッキをまず前に歩いて、途中からきゅっと90度の方向転換をして右に進んで行くと、お嬢は慣れた身振りで無言のまま、あごで一隻のクルーザーを指し示した。
 訳: 「こっちよ、乗って」
 反応: 「でかいじゃん」
(北海道の人間なのに、横浜方面にほんの数時間いるだけで感化されてこんな口の利き方になってしまったじゃん)。
 ボクが乗ったのは真っ白のクルーザーであり、キャビンに大人6人泊まれる設計である。実際、近海なら十分航行できそうな装備と大きさに見えた。セールはついていない。エンジンとプロペラで走る仕様のようであった。ガレー船なら船の両側から小さな櫂が出て甲斐甲斐しく動くはずだったが。それに、船底から突き出ているバラストはどのぐらいの深さまであるのだろうか。それとも付いていないのだろうか。
 会社経営者とか、パートナー弁護士とか、株で当てた怪しい人間とかが乗るんじゃなかったのだろうか、こうした贅沢な乗り物は。セシリアはキャビンに降りて行く真ん中の入り口の横に取り付けられている数段の階段を上ってキャビンの天井に乗って行ってから、ボクの手を取って上に引き上げた。
 その気楽そうな身動きを見ていて、小学校のころのガールフレンドのことを思い出した。ボクには昔からボーイッシュなコから逆ナンされる傾向があったようだ。(ボーイッシュの反対の意味の英単語って知ってます? ガーリックっていうんですよ。ウソ)。バスケットボール部に入っていて、ボクより5センチも背が高かったあの子の両親は、まだ今ほど豊かでなかったシンガポールに転勤して、あの子を突然連れ去って行ったのだ。あのボクら同じクラスの仲間たちのひとりも行ったことのなかった南の島では、あちこちで伝統的な中国家屋が取り壊されては、高層ビル街やいろいろな施設や芝生に置き換えられている最中だった。世界最高の空港を建設するのだ、というスローガンが街中に数カ国語で見られた。マーライオンや中華街の絵はがきが2回来た後、音信不通になった。教室でその子の座っていた席は、年度末まで「欠番」となっていた。その後、ブリュッセル、大連、ムンバイを巡って、現在は神戸にいると聞いた。今どんな暮らしをしているのか、気にならないわけではないが、特に調査をかけようとまでは思わない。ただ、「ボクはあのころのキミより背が高くなっているよ」とだけは教えてあげたい。
(きっと、座高が伸びたのね、伸びーたーのーねー)。
 クルーザーの周りには数十隻の船が並んでいた。ボクは思わず口笛を吹いた。葉山マリーナよりずっとこっちの方が大きいじゃないか。
「こんなの目じゃないわ。ヨーロッパもアメリカもオーストラリアやニュージーランドなんかもヨットは盛んだから、お金持ちはちゃんと大型艇を持っているのよ。標準サイズのヨットなら一般市民にだって相当普及しているわよ。楽しいことはいけませんっていう文化でしょう、この国って。一番暑い1ヶ月半は割り切って全部夏休みにして、たっぷり眠って遊んでこそ経済も発展させられるのに。人口が多すぎるのも問題よねえ。90年ぐらいかけて3,000万人ぐらい減らせばいいのよ。平地の面積と自然災害を考えると、理想はせいぜい2,500万人ぐらいじゃないかしら。今の5分の1。誰でも今の5倍のスペースに住めるようになるのよ。そこまで行くのに2世紀は必要でしょうね。省エネに長けていても人口過剰の分資源消費総量の多いこの国が、そこまで人口を減らして適正化したら、世界全体に貢献できるわ。マリンスポーツを楽しめる人の割合も今の10倍以上にはなるでしょうね」
 私はクルーザーなんてそれまで乗ったことは一度もなかった。普通はそうだろう。その乗船が、この夜のボクの初体験となった。自艇と他艇の間の黒々とした波は太平洋の一部だった。防波堤で抑えられているとは言え、休みなく動いてボクらの乗った真新しいクルーザーを微かに揺らし続けていた。体も腰も両手も連動して緩やかに動く。アロハオエ。
 だが実は、ボクはこのクルーザーの屋根に乗って、周囲の大小のヨットの帆が大量に目に入った瞬間に、絶叫したくなるほどの恐怖で全身が硬直していたのである。まるで、霧の向こうから敵軍の旗竿が数百本突然現れて、それぞれの旗印を見せつけられたような感じで慄然としていたのだ。
「帆だ。帆船だ、帆掛け船だ!!!」
 デッキを歩いていた時は、周りがたまたま帆のないクルーザーだけだったのだ。後に北海道に戻って医学部に入り、法医学の教科書を開いて見せられた時にも瞬間的に嘔吐しそうになったが、それに匹敵するショックだった。なぜ体調が悪くなったのか、それは子どものころから帆を見ると、父の不条理極まりない人生と非業の死のことを思い出してしまい、にわかに鼓動が激しくなり、冷や汗がにじみ出し、立っていられなくなり、視野狭窄にも陥りそうになるからだった。だからできるなら、帆の下ろされていない船群には目を向けたくなかった。ボクは必死に耐えてセシリアの方を振り返った。
 すると、キャビンの方に電話がかかってきた。彼女はとんとんとん(豚・豚・豚)と降りて行って、うんと気取った美声で応えた。ボクのところからは見えなかったが、きっと笑顔まで作っていたのだろう。
— « Allô, bonjour ! » 
 ああ、気が紛れた。ボクはこのひと言でぐっと気が軽くなったのだった。セシリアの声を通じて、その安逸に違いない豊かな人生が輸血のように私の体内にどっく、どっくと流れ込んできて、金縛りが解けたような気がした。すると、彼女はフランス語で電話に出たのに、今度はドイツ語を使った。ベルサイユに憧れているんじゃなかったんですか。 
„Ja, ja, es gilt! Dann werden wir alle dabei zusammen sein. Einverstanden. OK, bis bald. あなた今の分かったでしょ」
「分かりませーん。ドイツ語はこれから勉強始めるところだよ。高校の時にオーストリア人から習って、ほんのちょっとだけやったけどね。ドイツ大使館が教務を通じてドイツ語を学ぶ学生にって、白いビニール表紙の趣味のいい手帳を配ってくれたよ。ああいうのってすごく嬉しいね。ドイツに関心のある外国人学生に敬意を表して支援してくれるんだ。始まったばかりの学生時代の努力を刻んだ思い出の品として死ぬまで大切に持っていたい。死んだら棺に入れて一緒に焼いて欲しいな。まさか、炎の中から火の鳥が『あっちっちっ』とでも言いながら羽を広げて現れて、西方浄土の方角を目指して羽ばたいて行くことはないだろうな。ドイツ語辞典の中で一番大事な独和辞典をどれにするか色々悩んで結局ある独和を買ったら、編者のひとりが珍しい名前のドイツ人の先生だった。絵記号のデザインも良くて、見やすく分かりやすそうな辞典だよ。外国のことは知らないけど、日本の辞典ってどの会社のも、印刷、装丁技術だけじゃなくて、そもそも使ってる紙の質からして芸術品じゃないかな。学生にはこたえるけど、4,000円しない値段の水準でああいったいろいろな国語辞典、古語辞典、漢和辞典、外国語辞典を出版できる国に生まれて運が良かったよ。明日はランゲンシャイトの独英・英独を買うよ。先生2人からは独独を読め、と言われてるけど、まだ無理だね。いや、結局買うことになるんだから、ドイツのサイトを調べてみるよ。早く手に入れて手元に置いておこう。新学期っていつも心が弾んだけど、今回は大学生になって、それに一人暮らしを始めているんだから特別だよ。目を閉じて辞典のにおいを肺の奥まで吸い込んだんだ。独特のにおいがした。教科書や辞典のにおいは新学期のにおいだ。部屋にアロエの鉢も買ってきたし。火傷とかするからさ、きっと。苦いけど腹が減ったら食べてもいいし」
「あら、そうなの。私高校時代にドイツ語部を創設して部長をしていたの。学校まで来て女々しいことするのは止めなさいって待ち針でフェンシングをして脅して、開学以来続いていた一番の老舗のクラブだった家政部を追い出して占拠した部室の縦窓から、ヒマラヤスギの枝越しに港が見えたわ。権力って好き。大金はもっと。いくらあっても邪魔にならないわ。今のは友だちからでね、ミーティングの確認電話だったのよ。ちゃんとみんな揃って行くから大丈夫って返事したの」
(家政部はお気の毒に階段の下の実験用ネズミ飼育室に移転させられた。チュー)。

第33章 「日本カースト」上層の人々(前半) https://note.com/kayatan555/n/n5fb21719e488 に続く。(全175章まであります)。

This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2024 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?