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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第43回 第36章 両国へ

 次のデートは大相撲だった。と言っても、2人で土俵に上がって向かい合って紙相撲をしたのではない。もっくんの映画見ました、あなた? 映画は映画館に行って(冷や汗をかきながら)暗くした広い空間で見るもんっすよ。ふたつの両国駅から国技館までの所要時間を比べてみたが、結局JRでも、それより時間がかかる地下鉄でもなく、隅田川下りの水上バスで行くことにした。完全に観光客気分である。東京って、あっちこっちで色々できて楽しいわーん。東京や大阪は川の水量が多いのでこうした船遊びができるが、札幌の川はごく浅く流れも速く、その上を帽子が流れて行くだけである。♪〜。
 セシリアと一緒に外に出て、「清洲橋ってきれいだね、あの夜明け直前の空の暗い紺色がいいなあ。版画があっただろう、川瀬巴水の。あんな日本に生まれてみたかったな、オレ。生前摺りの本物買えないかな。でも、もう誰もどれだけ大金を積んでも売ってくれないんじゃないかな」なんて言って複数の橋の下を潜り抜けながら風に吹かれていると、この平たい船に同乗していたイラン人だという新婚旅行客から、お似合いのご夫婦ですね、と日本語で話しかけられた。いやーん夫婦だなんて、No, we're just friendsっすよ、と答えかけて、そうだろうかと判断に迷ってしまい、そのまま口をつぐんだ。セシリアは髪をポニーテールに直しながら言った。
「わたしはTwilight at Ushibori が一番好き。そう、『牛堀乃夕暮』よ。あの茨城の水郷の帆掛け舟、乗ってみたかったわ。これぞgood old Japanって感じよ、あの世界。初摺の方が味があるわね。ちょうど1930年の作よ。高2の夏休み前に、美術の先生と大学で同期だったという美大の先生が来校して出張講義をしてくれたときに、そう教えてくれたわ。
 1900年が明治33年、00と33が形が似てるから覚えやすいだろ、お前たちって、中学の先生が元号を西暦に換算するときに覚えておけって言ってたわね。1920年が大正9年。これはな、十九、二十歳の見習い大工って覚えるんだ。大工=大9だ。
 確かにそう覚えているわ、あの授業に出ていたわたしたち。テレビで大正何年って出ても、すぐに西暦に直せて便利よ。その1930年は昭和5年だけど、これはどうやって覚えておけばいいのかしらね。Hokusai, Hiroshige and Hasuiで3 Hsって言うのよ、知ってた、あなた?」
 ぼくはお喋りだが、セシリアはもっとうわてで、喋りっぱなしなのだった。
「あなたも入れたら4 Hsになるわね」
「あのう、ぼくの名前のイニシャルにはHは入ってないんだけど」
「あらぁ、だってぇ」
 両国で下船して国技館の前に立った。川面の風を受けながら見上げる緑青の屋根が美しい。いまだに国内で一種お客さん扱いを受けている感のある北海道からこのような日本の伝統的な場所に足を踏み入れると、外国人が密入国してきているような、くすぐったいような感覚になる。
「誰も職務質問に来ないね。もうとっくに入国ビザ切れてるのにね」
 19世紀に北米から「お上りさん」としてイギリスに行ってみたら、似たような感覚になったのではないだろうか。しかも、行ったのが、極めつきに料金の高い砂かぶりの土俵際の席であった。チケットを手に入れるのが難しかったが、「パパ」があっさりと手に入れてくれた。周囲には、なれ初めを聴き取りするだけで20分以上はかかりそうな、ともに和装の70代前半の旦那と40台後半らしき女性だとか、もう同じ枡席を「御一新」以来1世紀半にも渡って確保し続けているような料亭の女将、髭を久しぶりに危険カミソリで剃ったため頬と顎の数カ所に新しいかさぶたのできている髪はぼさぼさのままの着流しの生活力ゼロの色男(「だって、しょうがねえじゃねえかよう」「まったくあなたったら」)と6歳ほども年上で心配顔の女性(奥方か否か不明)、というようなわけありの面々が見受けられた。あの場所に堅気の衆はどれほどいたのだろうか。ふと、セシリアはこれまでどんな男性と付き合ってきたのだろうか、と初めてその過去(と現在)を知りたくなった。二股、三つ股? (「本命はあなただけよ」「ほんとかー? オレは穴馬でもないんじゃないのか」)。四股?(どすこい)。
 土俵と観客の間には一切の防護柵がない。仮に、かつて19世紀にカナダ人のスポーツ指導者が、マサチューセッツ州でバスケットボール競技を発明してその基本ルールを制定したように、スポーツに造詣の深い法律家が相撲という仮称の競技を新たにゼロから設計するように依頼されたら、真っ先に土俵と観客の間に緩衝施設を設けることを提案するだろう。興業できるようにするためには、力士と観客双方の安全を確保する契約責任が生じるからだ。しかし、現実にはテレビ中継を見るだけでそのような配慮は皆無であることがすぐに理解できる。そのため、一番前で観戦している客が、土俵から激しい勢いで転落してきた体重200kgもの巨体の力士に圧死させられる危険が常にある。殺されなくても重傷は免れないだろう。いくら鍛えているとは言え、力士も大怪我をする可能性を否定できない。途中何度か座布団が飛び交ったが、ブーメラン(ブーメラン)のように元に戻ったりはしていなかった。(秀樹、ありがとう。成仏してくれ)。もう力士たちをこんな身近から、しかも見上げる角度から観戦する機会など一生ないだろう。それほど特権的な経験だった。
 行司の衣装の彩りや、拍子木の音色、弓取り式に代表される様式美の世界にどっぷりと浸かった3時間ほどの相撲観戦は文句なしに素晴らしかった。まるでアメリカに新移民としてやってきた外国人が、晴れて市民権を授与された直後にヤンキースの試合を「砂かぶり席」で見て、さっそくアメリカ英語で野次る経験のようであった。それにしても、わが国の「国技」の世界がここまで国際化してきているというのは何という皮肉なのだろうか。何しろ今や相撲はモンゴルの国技同然である。
 大学ではドイツ語の語彙増強試験が近づいていたのに、相撲を見た次のデートでは、安易な連想から、ちゃんこ鍋を食べに行った。日本政府から特に異議を唱えられることもなくアグレマンを得て東京に赴任してきている各国の外交官もたいてい一度は行ったことがあるはずの銀座の有名店ではなく、都心と言っても、1.5流といった風情の界隈にある店であった。
「オレの時は馬車で白バイの護衛付きで皇居に運ばれて行ったぞ」
「あれ、オレの時は白梅の飾り付きの牛車だったな。北千住まで渋滞が発生したって夜のニュースでやってた」
 店のすぐ前の歩道の公共升にはキウイが生っていた。オスの木が1本、メスの木2本の間に植えられていて、両方にジグザグにちょっかいを出しながら絡む形で仕立てられていた。近くのあちこちにも、勝手に他の植物が植え込まれている無秩序的な歩道であった。通りから小さな俵の断面をあしらった模様の階段を降りていって縄暖簾の入り口から入って行くと、会計の目の前に無駄に明る過ぎる照明があって、経営者の元力士の価値観を疑った。ここを通る時に目が痛くなりそうであった。趣味悪いぞ。床山さんに相談して内装を考えた方が良かったんじゃないか。
 ちゃんこ鍋屋はすすきのにもある。食材の豊富さを考えれば、むしろ根室、釧路を始め、北海道にあるちゃんこ店の方が料理は美味しい可能性さえあった。しかし、この手の料理は、やはり実際に「お相撲さん」の闊歩している相撲協会のお膝元、お江戸でこそ食したいものである。料理は雰囲気が重要である。あの鍋の湯気を浴びた私は、北海道人の度合いが5%は下がって、その分、日本人ないし端的に東京人としての度合いが高まっていた。どすこーい、どすこい(「ドスで恋どすか?」)。
 その次はまた籠目マリーナに行った。日差しが強かった。周りのほとんどのクルーザーは純白なので、ここに来てウッドデッキを歩いていると、まるで北海道で雪に囲まれた中を歩いているようにも感じる。でも寒くないのはなぜだ?

第37章 クルーザーでたゆたうやり取り https://note.com/kayatan555/n/n14233bb4164a に続く。(全175章まであります)。

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