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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第148回 第114章 私の親戚

 私のいとこの40%以上が東京都内で生まれた。(その割に私は自分が東京に住んでいた期間に親戚をあまり訪れなかった。上京の挨拶に一度行ったきりの数軒がある。札幌にいる時は、親戚の存在感が薄かったが、自分が都内に住むようになってみると、今度はいつでも行けると思って足が向かなかったのである。別の場所には足繁く通ったのに)。今や本来の北海道出身組は少数派に転落寸前である。いや、日本画家になっているいとことその旦那が去年美瑛の自然林の中に750坪の土地を買って引っ越してきたから、北海道生まれが少なくとも一人は増えるかもしれない。都民組の中の4人は生まれた家にそのままいて大学や短大の入学時まで親と同居していた。しかし、卒業までそうしていたのは一人だけである。
 これと別の一人は、南米チリのチロル系の留学生と交際していた。耐震建築建設技術の研究に来ていた博士課程の大学院生であり、修士号はイタリアの大学院で取得済みであった。せっかく祖父の一人の出身国であり遠戚も何人かいるイタリアに留学しているのだからと張り切ってイタリア語で論文を書こうとしたところ、他ならぬイタリア人の指導教官から、「今どき、イタリア語なんて地方語誰も読まんぞ。悪いことは言わないから、英語にしときんさい。そうしておけば、世界中でたぶん6人ぐらいは読んでくれるだろう。これはかなり多い数だ」とたしなめられた。外国生まれのドイツ、オーストリア、スイス出身者の子孫によく見られるような分かりやすいすっきりとした構文のドイツ語を話した。一部の語彙や言い回しは「古くさい」とドイツ人にからかわれる。トイレを厠と言うようなものであろう。
 この院生が、たびたびテレビのインタビューに捕まるほどのイケメンだったのである。
「ジャッパニーズTV、OK?」
 あなたならあの謙虚なインテリ青年の神々しくも気さくな笑顔に勝てるだろうか。このいとこは、大学を中退して男を追ってチリに行くと大騒ぎを起こし、結局、休学して生んで、子どもが4歳になったときに無理矢理復学して卒業を果たした。この子は、スペイン語、日本語、英語(アメリカ系のインターナショナルスクールに入れた)の3カ国語のネイティブスピーカーとして首都サンティアゴ市の都心で育っており、どうしようもなく可愛い男の子である。もう小学校の上級であり、サッカーのチリ・ナショナルチームに入ると宣言している。学業成績も良好である。母親としては、何とかこの息子に親離れされませんようにと毎日薄氷を踏む思いである。だが、踏む対象が薄い氷でも、霜柱でも、麦でも、家族の顔でも、子はやがて出ていってしまうのだよ。それこそが、親業の悲しい成功なのである。奥方、今のうちからご覚悟めされい。
「やーだ、わたしそんなの絶対ダメ。このままずっと、この子と母親息子団子になっていたいの。誰か何とかして!」
 私の親戚の一人は現役で東大理三に合格し入学した後、半年足らずで休学届を出して、創立800周年を祝ったケンブリッジ大学に行ってしまった。貧乏な「赤ひげ」医師の子だから、もうかつかつの生活には飽き飽きして、保険治療をしない金儲け医師になるだろうとの親戚中の噂である。それはそれで本人の自由である。
 別のいとこ2人は千葉県内にその親が豪邸を建てたのだが、東京を離れたくなくて泣く泣く引っ越していった。川を渡るとまるで人間でなくなるかのような愁嘆場を見せた。千葉県民に失礼ではないか。さらに他のいとこは、親が経済的に行き詰まって国内数箇所を点々としていたが、8年間の漂流後にふたたび都内に戻り、現在は以前よりは少し広めのマンションに入っている。ローンの支払いは順調である。
 こういったところだろうか、私の親戚の現況は。離婚の危機が進行しているのか、息を潜めているだけかまでは噂では伝わってこない。

第115章 暗くても、寝てはいられない貴重な夏の朝 https://note.com/kayatan555/n/n61ee3ebbf09a に続く。(全175章まであります)。

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