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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第32回 第27章 水道橋そして六本木 (前半)

 このコの唇には薄くルージュが引かれていた。私にカメラを向け、無言のまま指をぴんと立てて写真を撮る合図をしたが、その時に、はいチーズ、というありふれた台詞は発しなかった。声には出さなかったが、にやっとした口は明らかにゆっくりと“Say sex!”と動いた。日本文字では「性・セックス」である。
「いやらしかー!」
 これを真似て、この日の後、どこで誰にこの台詞を言ってみても、にこやかな良い笑顔の写真が撮れることが分かった。チミもいっぺん上司に向かってやってみたまえ。きっと転職の機会を与えられるだろう。
 この最初の写真を1枚撮られた瞬間に、その撮影が警察署内で被疑者に対して行われたかのように私は緊張してしまっていた。法学概論の講義の中で聞いたのだが、「何々警察署」というのは、中央署を除けばすべて分署なので、英語ではXX Precinct Police Stationと表記しなければならない、のだそうである。後に台湾の高雄市にある警察署で実際にそのような書き方を見かけたことがある。
 うちの大学の先生や院生には、テレビ局、新聞社、出版社だけでなく、警視庁、検察庁や裁判所からも日常的に通訳の依頼が来る。取り調べや公判だけではなくて、勾留質問の際にも通訳を付けなければならないためである。もちろん他の大学やプロの通訳者のところにも依頼はあるのだろうが、何しろ外国語大学である。本家本元という感じがして、こういう話を聞くと、自分には直接関係がないのに、天下を取ったかのようで実に気分が良い。どうだ参ったか。国内で数人しか使い物になる通訳者のいない特殊な言語の場合には、書記官が懇願するのだそうである。電話で相手の顔は見えないが、声の変化で相手が明らかに頭を最敬礼の形で下げているように聞こえるのである。心が痛むなあ。
「先生においでいただかないと公判が開けません」
(お願いしますよ、この通り)。
「そう仰られても、仕返しが怖いんですよ、あの国は。私、京浜運河に浮かびたくないので、せっかくの光栄なお申し出ではございますが、ご辞退させていただきます(小樽運河だったら寒くてもっと嫌です)」
 その場で2枚目、3枚目、4枚目まで撮影は続いた。その度に、このコは声を出さずに何やら呪文を唱えるかのような口の動きを見せた。最初の「セックスって言って」の合図以外は何を言おうとしているのか分からなかった。日本語でも英語でもなかったからだ。何か特別な内容なのかも知れなかったが、ボクはそんな詮索に深入りせずに、このコの目の色に心を奪われ始めていた。はしばみ色ではなく、青みがかった目だ。いい、この女。オレ東京に出てきて良かった。
(「だからー、ワタシは横浜なの。さっきから、東京はイモだって言ってるでしょう、聞いてないの、ワタシの話?」)。
 この鷹のように強気一方の相手の目に何となく気圧されて、2次会に流れる連中を階段の上でやり過ごして、母音が5つではなくて8つもあるように聞こえる地方訛りのドライバーが運転するタクシーで六本木の別の店にふたりきりで行った。18歳で札幌から出て行ったばかりの私は、六本木自体、足を踏み入れるのが初めてだった。停車間際に書店の看板文字が見え、その店に着いた。このコは、「最短距離を取らなかったわ、あのドライバー。私たちが気付いていないとでも思っていたのかしら。何で日比谷公園の前なんか通ったのよ。あそこは、昔、波打ち際だったところでしょ。400円ぐらいぼって得したつもりにならないでよねえ」と言った。彼女の使った一部の蔑視的な名詞や形容詞は割愛しておく。私は分かっていないのに、「私たちは」と言ったのは私に対する敬意的な配慮からだった。このコ、実は育ちのいいお嬢だ。きっと間違いない。友だちになりたい、と思った。私は水道橋からの経路に詳しくなかったのでピンと来なかったのだが、後から調べてみると、やや不自然な遠回りをされていたようであった。上京者搾取の手口である。これは世界中どこでもあるのだ。アメリカの大学で熱帯寄生虫学の教授をしている私の華人の友人が、北京空港に着いて、そこから共同研究のために招待してくれていた大学のある地区に移動するときにも、正規の料金の4倍ほどふっかけられてしまっていた、そうである。中国語が完璧にできてもこの被害ぶりであった。
 私はこのコに連れられて、六本木ヒルズ近くの、しめ縄を短く切断して縦に立てたような形のビルに入り、12階でエレベーターを降りた。このビルで入ろうとしていた店には特殊なルールがあった。入店する前に、開いている窓の方からロープ付きのパラシュートで一回ゆっくり地上に降りるという迷惑な趣向である。方違えの伝統に従っているのだろうか。そうして、もういっぺん上がって行くと、今度は14階でフロアーの方に出た。この神秘的なコの横にいられるのなら、そのまま500階でも2,000階でも上がって行きたかった。宇宙エレベーターか?
「下から補給物資がなかなか上がってこないね。ここは成層圏だもんね。途中で戦闘機か何かがぶつかったんじゃないかな。でもきっと自動修復機能が働くだろう」
 この最初より2階上の階では(見よ)落下傘(古いね)を背負わされなかった。私は、紫がかって見える太い竹を効果的にあしらった目の前のアジアン・テイストの瀟洒なバーのエントランスを見て、自分は完全に場違いな大人の都会人の世界に足を踏み入れようとしているのではないか、そもそも金が桁違いに足りないのではないか、と大いに心配になった。防衛本能が働き、ある部分(複数)が縮み上がった。だが、斜め下を見ていたわけではないが、このコは私のその様子に気付いて、「何ビビっているのあなた? 私が誘ってるんだから、今夜は私に任せなさい」と、護身用超小型拳銃を入れておくのに便利そうな場所に潜ませていたゴールドカードを、手裏剣のようにすっと取り出して見せた。
(かっこ良すぎる! ルパン3世の台詞を思い出す。「銭形の方か?」「いや、そうではござらん」)。
 クレジットカードの代わりに、ハートのエースや、お茶漬けの紙袋や、その夜当直の判事が発行したばかりの逮捕状を出して見せても似合っただろう。左利きであること(sinistrality)は外科医になる上で障害にならないだろうか、とはその情景の記憶から相当後になってから気付いた疑問である。
「私心配しないんで」
 その夜、他の学生たちもいる前での自己紹介の時の声優が務まりそうなほどの美声から始まって、この女性が見せる様式美を思わせる一連の一切無駄のない潔い振る舞いの目眩がするほどの格好良さに私はすっかり痺れてしまい、「これぞ都会の女だ、一生この人について行こう」と思いかけたほどである。この時、ボクは名前を聞き漏らしていた。だってすごい美人だったから、見惚れてしまっていたのだ。
「小生の運命の人はこの人でしょうか?」
「不是(違います)」
 だが、下手に同棲したら、目覚めてみると自分の肉体が解剖学の教科書通りに腑分けされてしまった後かも知れない。
「鳴滝塾から借り出してきたオランダ語の指南書に従ってみました。何か不都合が生じたら、誤訳をした翻訳者の責任です。処刑してください」
 形状記憶肉体だったら、指パッチンひとつで次々と各部位が自動的に再接合されて元通りの人間になったかも知れない。M-Z。

第27章 水道橋そして六本木(後半) https://note.com/kayatan555/n/nd6701da4f8c6 に続く。(全175章まであります)。

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