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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第173回 第139章 ペンキ塗り、ヨットに命名

 軽い朝食の後、時々酒を呑みながらの2日目の塗装は比較的短時間で終わった。いい加減乾燥した時点で、最後の理性と筋力を発揮してヨットを体育館内に運び込んだ。仲間たちで協力した一連の作業が無事完了したのだ。
「ドカン!」
(わー、ビックラこいた)。遠く離れた場所にいるミカンちゃんの子どもが、テレビのダンス番組をエキサイトしながら見ていて、遠隔操作の祝砲のスイッチを踏んでしまったのだ。
「おっとっとっと」
 やれやれ、うまく行けばこれであと1年はこんな手間はかけずにヨットに浮かんでいられる。小春ちゃんは、「ママは?」と夜中に目を擦りながら何回も尋ねたので、フランケンは右手と右腕を気遣いながら、朝食後ほどなく先に低速で帰っていった。後続車から嫌がらせを受けなければ良いが。医師の乗車している車両は、速度制限を外すなど特権的扱いをすべきである。
 これで、顔ぶれは学生時代と変わらなくなった。良きにつけ悪しきにつけである。私は当てにしていた帰りの足がなくなったので、江別・野幌(Nopporo)に住んでいる境医師の自慢の車に乗せてもらうことになった。空港近くの私の自宅に寄ってもらっても、あまり遠回りにならないので、さほど肩身の狭い思いをしないで済む。珍しいデザインのフランス車だが、車内空間は乗っていて小学校時代の放課後のように楽しい。走る秘密基地だ。
 デザインといえば、日本のデザインにももちろん優れたものが少なくないが、イタリアのデザインは一瞬で心を掴んでしまうものが多く、その代表例が車である。どうしてあのような車体の形状を作り出せるのか、あのような車内空間にできるのか、あのような光沢の塗装にできるのか、預金残高を思い出しながら苦悶させられてしまう(あと250万円出せば買えるぞ、この車)。
 浜では様々な種類のアルコールを飲んでは、肉を食べ、野菜を炒め、魚をほぐし、お喋りをし、火を焚き続ける。全身が煙っぽくなって行く。見上げれば、空には豪華な夏の日差しがあるじょ。ああ、こんな日々が永遠に続けばいいのに。この体を植物に変換してもらう手立てはないものか。
 医学部を卒業してからほどなくしてバーゼルの薬学研究所に5年行ってきた医師は、最近縦縞のシャツばかり着てくる。きっと奥方とは別の現在の交際相手の趣味に従わされているのだろう。
「あー、いーけないんだっ」
 口調もちょっと変化している。その彼女の口癖が乗り移っているのだろう。前は「したっけ」なんて言わなかったのになあ。今回の関係はどのぐらい続くだろうか。金の切れ目が円の切れ目になるのかなあ(どーでもいーっすけど、漢字違ってませんか?)。
 このスイス帰りの医師は、手稲区の下手稲通り沿いの自宅が消防署の近くにあり、現在の署長と剣道仲間であるため、朝寝をすることができない。年を取ってきて朝が一層早くなっているこの署長は、朝練のために月曜日から金曜日までの毎朝午前6時10分には電話をかけてくるのである。何と迷惑な真面目人間よ。この手の性格は矯正不能である。
 この自宅は、震度7にも耐えられる設計の鉄筋空堀地下1階、地上4階建て、3階全部がプロレスのリングのように四隅を柱に囲まれたベランダ、4階は3階からハシゴで上がるお仕置き部屋で(座敷牢。着工時の思惑が外れて、もっぱらこの医師自身が閉じ込められているようである。「あーん、もうしませんー」)、庭はない。屋上隅の少し枯葉と土が溜まったところに小さなポプラが5本も人知れず育ち始めている(放っておくとえらいことになるど)。風呂は香りの良い古代檜を使っている。これは贅沢である。新築直後は、「難しい手術を終わらせた後の入浴が至福だから、今度一回使わせてやる。赤ふんをきつめに締めて、バスタオルだけ持って歩道を行進して来い。がははっ」と言っていたが、勿体なくなったのか、それとも奥さんに、「冗談じゃありませんよっ、うちは大学のクラブの部室じゃないんですからね!」と刑事訴訟法上の手続きによらずに即時司法で首を絞められ回し蹴りを喰らって撃沈されたのか(「このうちの主権者はだーれっ?」。水面にカツラが浮いている)、その後はこの話は出ず仕舞いだった。惜しかったなあ。使わせてもらえていたら、その風呂のつるつるの表面に彫刻刀でKilroy was hereって落書きを残してこられたのになあ。
 オランダに視察旅行(運河の管理)に行っていっぺんにオランダびいきになった署長は最近オランダ語の勉強をしている。どうやら、コーヒーショップなる場所にも寄ってきたようだ。この話題を振ると、妙な目付きになって話題を変えるからだ。そこで、うんと喉に摩擦音を効かせた発音でGoedemorgen, meneer! Hoe maakt u het?(フーデモルヘン、メネール。フー、マークト、ユー、ヘット)と張り切って朝の挨拶をするのである。ビールもフラマン語(オランダ語)を国の北半分で話すベルギー産のにしたいのだが、かなり高価であるため飲む酒の量が目立って減ってきて健康的になっている。いいっすねえ。外国語学習の思わぬ副産物である。だからチミも最低第4外国語までは勉強してみようよ。第3、第4はたった20時間ずつぐらいでもいいんだよ。きっといいことがあるよ。

第140章 ヨット化粧直し完了 https://note.com/kayatan555/n/nb9e399722bc5 に続く。(全175章まであります)。

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