『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第175回 第141章 外国人による札幌評
夏至を含む4日間の休暇でボクらは学生気分に戻りそうになっていた。例えて言えば、不十分な歯列矯正の結果、それぞれの歯が元の位置に戻って行きそうな不安定化を始めてもおかしくなかったのである。大陸移動説のWegenerの名前を思い出した。しかし、そうは問屋が卸さない。患者さんたちが、職員たちが、婦長閣下が待っている。へへーっ。
翌朝からまたボクは濃いめの緑茶とアフター・シェービング・ローションの刺激で目が覚めながら、医師の顔に戻ってハンドルを握り病院の地下駐車場に降りて行った。入り口がジャングルのように植物で密に被われて隠されていれば、秘密の洞窟に侵入して行く探検家の気分が味わえるだろう。スネッフェルス山の火口から地中に降りて行くわけではない。坂を下りている数秒間では目が暗さに慣れない。そのうち事故るな、きっと。コンクリートの壁に正面衝突して。そうなる前に一攫千金を果たして気候と治安の良い外国にとんずらしなけりゃな。でも、具体的な国や地域の名前が浮かんでこない。なぜだろうか。
ここ札幌は定住外国人からは抜群に評判が良い。市内のある大学の教授になった外国人は、なぜ札幌に来たのか、と就任時に問われて、日本語でこう答えた。
「私はアメリカで生まれたアメリカ人ですが、世界数カ国に住んで働いたことがあります。でも、その中で色々な点を比べてみて札幌が一番いい街だから、ここに住むことにしたんです。安全だし、清潔だし、親切だし、食べ物が美味しいし。困った点もいくつかありますけど。一番は電信柱です。あれがあるうちは先進国ではないです。空中架線のせいで街路樹がずたずたに剪定されて醜いし痛々しいです。最後には根元から伐採されて、せっかく何年も育っていた緑が消えてしまいます。写真を撮ろうとしても邪魔です。ドローンも引っ掛かって墜落しますね。あれを半分以上なくすことができたら、またオリンピックやるのも悪くないでしょうね」
以前会った本州のある大学のカナダ人教授もほぼ同じ見解を披瀝していた。この人物は、「札幌には何でも揃っています。私は生まれたカナダにも帰りたくありません。今は仕事であの城下町にいますが、札幌に住みたいです。退職後はきっとこっちに来ますよ」と言っていた。北大で博士号を取って東京都内の研究所に就職した別の国出身の研究者も、「日本国内で札幌が一番条件がいいです。うちの国も暑いけど、東京の人工的な暑さはこたえます」と言って、日本語がひとことも分からなかった時点から四季を何度も経験しながら何年も住んでいた札幌を去るのを悲しがっていた。
さらに極めつけは、26歳だというある留学生からの激賞であった。私は以前、古代檜の医師から、予定していた参加者が1人急遽急用で出られなくなったので、という説明で、単なる人数合わせのために強訴されて、札幌での経験としては1回だけ合コンなるものに出てみたことがある。男の側は全員医師であり、「造作」は千差万別、これに対して、好みにもよるだろうが、女性陣はひとりの例外もなく「上質」な顔ぶれという分かりやすい布陣だった。女性たちは全員未婚だったが、医師の中には出席前にそっと指輪を外してはみたが、その周囲のゴルフ焼けが誤魔化せずに、白っぽい地肌が輪状に目立つ参加者もいた。はあーん、なるほろね。
その時に、テーブルの斜め向かいに座っていたこの外国人女性が日本大好き娘で、常に携行を義務づけられているという、ある色のパスポートを自己紹介のためにハンドバッグから取り出して見せてくれた。ちなみに、大英帝国旅券は紺で威厳を感じさせる。
「私、この色じゃなくて赤いパスポート欲しいです。カリフォルニアも魅力的だけれど、アジア人ははっきり差別されることは目に見えているので、できればこのまま北海道に定住したいです。理想的な街は世界のどこにもないでしょうけれども、政治に関わらなくても生きて行ける自由と平和と安全とおいしい食べ物に恵まれた札幌生まれの人間が世界一幸せだと思います。一年のうち春、夏、秋の9ヶ月はこっちにいて、2ヶ月は2、3回に分けて国に帰って、何回かの合計1ヶ月は旅行していられないかしら。そういう人生を一緒に作っていける頭が良くて誠実で豊かな方を探しています。私は母語の他、北京語、アメリカ英語、日本語、フランス語、スペイン語が読んで話せます。イントネーションが独特ですが、現在、スウェーデン語に挑戦中です。ヨーロッパにも住んでみたいんです。私は一人娘なので、両親が住んでいる首都都心の8部屋の高級マンションと国内第2位の大都市で賃貸している方の2軒のマンションを単独相続することになる見込みです。昨年度の評価額は日本円換算で合計3億6000万円ほどでした。うちには他にもアメリカとカナダに資産があります。(バーミューダのことは話すべきじゃないわよね)。両親とも10回以上来道経験があり、北海道が好きです」
どうしてこんなにすらすらと日本語が話せるんでしょ? そうすると、ひょっとするとここが世界有数に住みやすい土地なのかも知れない。人は自分の地元に対しては厳しい態度を取る傾向がある。それは他人から見て身びいきと非難されるのを警戒するからである。外部の人間による評価は、このような控えめな評価を修正させる契機となり得る。
第142章 新任医師登場 https://note.com/kayatan555/n/n287e59a213b1 に続く。(全175章まであります)。
This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2024 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?