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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第67回 第55章 デートに誘われない恨み辛み

 高校時代にパリに9ヶ月行っていたため、他人が目を閉じて聴いていればパリジェンヌと間違えるほどフランス語の自然なこの女子学生が、恥じらいも遠慮も何もなしにボクの無防備の部屋の床に、ロープ事件の後もさらに繰り返して吐き、目を閉じたまま、わめき続けたのだ。いっそ窓の外に2匹目の「鮭」としてぶら下げてしまった方が楽だったかも知れない。血中アルコール濃度のまださほど下がっていない様子の、この厄介者の方言を想像力で標準語に直して再現しておく。「誤訳も亦妨げず、只速訳せよ」(民法典制定にあたっての江藤新平の箕作麟祥に対する指示)。一部理解できなかった部分は割愛する。
「何よ、あんたのせいでしょ、ふざけないでね。男ってみんなズルい。東京はこんなにたくさん人がいて、幸せそうなカップルがあっちこっちにいるのに、どーして私のことは誰もデートに誘ってくれないの? (一部不明。松山の何カ所かの主要なデート場所の話か?ちなみに、かつてある町では高校生がデートをしていると、3箇所で知り合いと顔を合わせてバツの悪い思いをさせられたそうである。だったら、その生徒たちを教えている独身の先生方はもっと困ってしまって、invisible manに憧れていたのではないだろうか)。わたしだって強引な彼と手をつないで笑顔でスローモーションで走るサラサラヘアーの青春してみたかったのよお。愛し合うふたりの揺れる髪がビューティホーに輝いて見えるの。あはは、あははははっ。きっとキューティクルのおかげね。カレがゲーハーだったら別だけど。魔法の箒があったら、一緒に空も飛んでみたかったわ。えいっ。高い、高い。街が小さく見えるわ。BGMはあの曲よ。空を飛べなくていいから、部屋を自動で掃除しといてくれないかしらん。中学までまったくもてなかったから、高校に入ったらすぐに素敵なボーイフレンドができるって期待してた。サッカー部の浅黒いキャプテンとか。だけど、考えてみたら、進学したのが現役で東大にも入る生徒のいる女子高だったので、メン100%の正反対で男子ゼロ。男って言ったら廃車寸前(それともスクラップの最中)のポンコツ教師しかいなかったのね。しみったれハゲゴンとか、イボ眉毛とか(こう言っているように聞こえたが、イボまつげと言っていたのかも知れない)、華厳のたーけとか。それで指をくわえて3年間我慢して猛勉強してこの大学に入ったのに、今度もだーれも言い寄ってこないわ。(また不明箇所)。きっとこのままおばばになるんだわ。何の希望もない人生。もー、死んでやるわたし! ゲー、オエー」
 おーおーおー、ここで死なないでくれよ。それに、不満ばっかり勝手にほざいて、全国の精鋭の集まっている大学に進学させてもらっている有り難さが分かんないのか、あんたは。どれほど願っても大学に入って出るまでの資金が工面できない、予備校にも行かせてもらえない、涙も出せないまま進学の夢を諦めさせられている人間が毎年何十万人いるか分かっていないんじゃないのか。海外じゃ、極貧や災害や戦乱や国家崩壊で、小学校にさえ行けない子どもたちだって何千万人いるか想像もできない。学校に行きたいんだ、でも歩かされる距離が長くて学校が遠すぎるんだ。授業料も高すぎて払えないんだ。このオレだって、本来は札幌のあの名だたる受験校の学年でただ一人の例外として高卒でそのまま就職するしかなかったんだよ、父に死なれてしまったんだから。そもそも、あんたとは違う専攻で、まだ教室で2回しか挨拶したことないんだよ。今日だって、オレはこの眠ってしまったあんたのはとこは別として、オレが誘った奴らのうちの誰かと親しくてついてきたんだろうと思ってただけなのに。人のアパートまで来て腹いせで酒あおって、本に向かって吐いて、床までぐじゃぐじゃにすんなよ。
 ああ、ああ。何回も溜息が出そうな気分を押し殺して、これじゃもてるはずないよなこの女と思いながらも、後は気を取り直して実務的に敗戦処理を図ることにした。いっそフロア全体をジェット水流で洗い流せないかな。ついでに、血縁同士のふたりも揃って部屋の外に排出するのである。もしそうできたら、随分楽なんだがな。へば、スイッチ・オ〜ン!
 肩を貸してやって(今夜は肩が凝りますこと)この子をシャワールームに運んで、首から上を洗って清潔にしてやって、札幌から持ってきていた日高の親戚からもらった未使用の競走馬用大型バスタオルで全身をくるんで、ドアのすぐ前に転がして一丁上がりとした。春巻きのように見えた。英語ではspring rollとかegg rollとか言う。帯を使ったら昆布巻きみたいになっただろう。枕はナシ。梨ではない。これ以上オレに何をさせるんだ、身勝手な赤の他人のために?
 ところが、ここまでの狼藉でもまだ足りなかったかのように、この子は夜半に体を横にゴロゴロと回転させて春巻きを解いて起き上がったと思ったら、最後に、花火大会の終了合図の1発のように今度はボクの顔の真上にゲーっと吐いたのである。何回目の嘔吐だったのだろうか。ボクは危うく窒息死させられるところだったが、鼻の穴に流れ込みそうだったどろどろした液状物質を反射神経でクジラの潮吹きのように噴き上げた。セーフ! 両方のまぶたも、吊り上げたままパックをされたようにこわばりかけた。沈着冷静で理性の塊の(まあよく言うわねえ、自分で)このボクでさえ、この時にはこの酔っ払いを磔獄門に処してやりたいほど頭に来た。I am pun pun [sic]. 我ながらきっと恐い顔つきになっていただろう。もし物陰にゴキブリがいたら、一瞬怯みそうになったのではないだろうか。
「あーん、ぼくちんコワイー」
 これで、ボクはもう一度シャワールームに入らざるを得なくなった。全身お湯ではなくアルコールで消毒したい気分だった。床も掃除のし直しであった。こういう寝不足が一番腹立たしい。
 普通なら、若い男女が1つ部屋にいれば、その晩のカーテンはピンク色に染まるのだろうが、もうそんな事態には発展しようのない惨状になってしまった。もうひとりの学生は床に斜めになって寝ていた。そこ通りにくいんですけど。
 着る物が払底してしまい、明日は学校に金太郎さんの腹掛けで行くしかなくなってしまいそうだった。後ろ姿はどうなるんだろうか。教室に入ってきた先生から「何だチミは?」なんて聞かれそうだったが、もしそうなっても、答えの用意はできていた。
「そうです、私が金太郎さんです」
 高校の卒業式のことを思い出した。ゴーン。

第56章 セシリア、ボクを曲解する https://note.com/kayatan555/n/n22062baecfe7 に続く。(全175章まであります)。

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