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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第35回 第29章 湾岸を高速でドライブ

 シートベルトを手慣れた手つきで装着した彼女は、ドライブ用のグラブをはめ、God Save the Queenをハミングで歌い出した。私はこのコにイギリスの血が入っていることを思い出し、民法の判例集に載っているような言い方をすれば、好意同乗者である私としてもシートベルトも英国国旗の赤の帯の部分のように縦横斜め計4本しなければならないのではないかと2本目、3本目、4本目のベルトを探した。しかし、そんなものはあるはずもなかった。もしあったら、顔も脇腹も上半身も、空襲に備えてガラスを補強するテープを貼られた窓のようにがんじがらめに固定されてしまっただろう。非常時に脱出不能である。
「何やってるの? コンタクトでも落としたの? 手加減なしに飛ばすわよ。途中、カタパルト区間があってね、そこが危ないの。前に2回も引っ掛かっちゃったわ。安全に通れるかどうかは、その日の運次第なのよ。月のウサ吉がマニュアル通りに杵で餅の方を搗くんじゃなくて、前足が滑って脇の臼の縁の方をツンって搗いたら、スイッチが自動で入って路面が少しめくれ上がって、そこからフックとワイヤーが飛び出してくるようになってるの。そうなったら、この車体が一瞬で牽引されて離陸してお空に飛び出しちゃうかも知れないわよ。そうなっちゃっても、それは月の都合だからワタシ知ーらない! これから何か都合の悪いことが起きても、それはぜーんぶあなたのせいよ」 
„Doch!(なんでそうなるとでしゅか?)” 
「むち打ち症になったことないわよね」
„Nein!” 
「なってみたい?」
(んなわけないでしょ)。
「その2回とも、大きな明るい月の手前を私のこの車が斜めにすっ飛んで上がって行くところを撮影されてしまって、ネットにアップされて話題になったの。あれはUFOだったんじゃないかって。たくさん出ていた写真と動画には、私がハート型のメガネをして運転しているところまでくっきり映っていたわ。そのUFO説は両方の回とも正しかったのよ。ただし、Unidentified Flying Objectじゃなくて、Usakichi Fubuki Onsenの略の方ね」
(なぬっ? USO)
 ♪ ユーッ・フォー。
 私がその日わずか数時間前に初めて会ったばかりの素性も何も知らないままの医学部生は、アクセルを踏みっぱなしで何度も時速150キロを超えるスピードでぶっ飛ばして、ハマの自分のシマに向かって私を連れて行った。道交法を意識していたかどうか分からない。なぜあのスピードで捕まらなかったのか。ステルススポーツカーだったのか。
 川村カオリよ、ありがとう。あなたのことは忘れない。事前に名前だけは知っていたあなたのナレーションと曲を、ボクは受験のための上京の前の晩に札幌のコミュニティラジオで初めて聴いたのだった。消灯前にちょっと考えてから、起床しなければならない時刻より40分早めに目覚まし時計を設定し直していた時に聞こえてきたのだ。東京から南へ向かう車の中で、その同じ曲が偶然車内のFMでかかった。
 その歌詞を頭の中で不十分に再現しながら、ボクは時々ちらっと運転席の方を見た。するとハンドルを握っている女性はその都度すぐに気付いてこちらに顔を向け、にんまりとした笑顔でボクの目を何秒間もじっと見詰め返すのだった。瞬きまでした。ぱちぱち。道路のカーブに合わせるため、神経を常に前方に集中してハンドルを右に左に操作し続けなければならなかったのにである。スピードメーターは135ぐらいを指している。1秒間に何メートル進んでいたのだろうか。
「あの、前を見た方がいいと思うんだけど」
(「あんだって? ♪ 風が強くて〜」)。
 お互いのことを何ひとつ知らないボクら2人、CeciliaとJoeは、なぜかその夜だけ出力どアップになっていた月の光に照らされながら高速移動していった。Debussyの同名の曲は、フランス語ではClair de Lune(クレール ド リューヌ)という。車内では光と影が繰り返し交互に現れていた。
 ウサ吉は吹雪温泉(FO)なる、長い耳と前歯が凍傷になりそうな曲名の集団舞踊に興じる誘惑に負けずに慎重に餅を搗いていたようで、車は大空めがけて飛び上がっていなかった。その代わりにボク自身が空にすぅっと浮いていって、自分が乗っているこの車を上空から見下ろしながら追跡している感じがしていた。
「ピー、そこの車、左に寄りなさい」
 加速度に加え、何度も急に遠心力まで味わわされたドライブの最中、私の頭の中では各地の花火大会が続いていた。真ん中に中島があるので巨大な水のドーナツの形をしている洞爺湖に映える七色の瞬間炸裂花たち、高速道路を滑って行く他の車のライト、周囲のビルなどのネオン、その他の照明。流れ星まで今夜だけは大判振る舞いで、あっちこっちから落ちてくる。水芸ならぬ星芸である。
 横浜は雑多に広い。運転席の若い女性は途中で気が変わったのか、市内のどこか、例えば保税倉庫のようなアジトの前で停まるのではなく、港に近接した密に都会化した華やかな一帯を通り越して、車は三浦半島の方角を目指しているようだった。札幌は座標軸を交差させたような碁盤の目の街なので、札幌生まれの人間には生まれた時からデフォルトで体にGPSが内蔵されているのである。
「ピー。ただ今、車は南南東に向かっているであります。ピー」
 ダッシュボードに貼り付けられていた目玉焼きを模した方位磁石のガラス表面には月が映っていて、杵の上下動やFOの踊り子たちが櫓の回りを練り歩く様子が見え、その映像の下で薄く細長い磁針は揺れ続けていた。またまた、ちらっ。わー!
「キミ、運転中は横向くな!」
「あら、あなたが私の方をちらちら盗み見してるからでしょ。人のことそうやって悪く言わないでね。相互主義って言うじゃない。目には目を、埴輪好(はお)って同害報復の台詞聞いたことないかしら? 刑法でタリオって言うんでしょ。UFO! じゃなくて応報! ね。人間たるもの、殴られたら殴り返さなきゃね。ン倍返しよ。それも、力一杯手加減なしで、両手の拳が見えないほど速く動かしてね。それがむしろ相手に対する礼儀だわ。Oculum pro oculo, et dentem pro denteって言うのよ、ラテン語じゃ。 Oculumもdentemもmで終わってるんだから対格よね。ああ、言うの忘れていたわね。この車改造車でね、先週ブレーキ系統をカニ味噌を掻き出して食べるみたいにきれいさっぱり全〜部取り外してもらったの。その分若干軽くなっているわ。人生短いのよ。いちいちブレーキなんて踏んでてどうするのよ」
「どやって、止まるの?」
「あら、人生は一瞬も止まらないわ(ぱちぱち)」
(主語がずれまくっている)。
 その瞬間、あろうことか遠く離れた月表面で杵が直接臼に当たった。ツーン。
 ウサ吉のミスも三度まで。
(あ、やべ、最低気温がマイナス170度にもなって前足がかじかんじゃうんで、つい杵が滑ってしまったぜい)。
 果たしてこのふたりの運命は?
 次週の放送に続く(ウソ。次章に続く)。

第30章 湘南、海の風 https://note.com/kayatan555/n/ndd28162a89b2 に続く。(全175章まであります)。

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