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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第52回 第42章 勝浦

 勝浦が近付いてきた。私は日本人移民にとっての新開地札幌の出身なので、こうした本州の港町を見ると、思わずエキゾチックという言葉を使ってしまう。しかし、私がこう言うと、本州以南の圧倒的多数派の日本人からは、あんたの生まれた北海道、特に札幌こそがエキゾチックなのだよ、と言い返される。この手の評価は本来は相対的でしかないのだが、この勢力分布が続く方が日本国民のためである。なぜなら、北海道の人口が激増するということは、地震その他で、それ以外の地方、特に関東が居住不能になることを意味しているからである。
 入港手続きを済ませ、ホテルに荷物を置いてから夕食に出て、私は生まれて初めて金目鯛をごちそうになった。
「うみゃー」
 札幌で見かけることはまずない魚であった。室蘭に行った時に魚屋に入れなかったので分からないが、ひょっとすると室蘭や八雲や函館では売っているのかも知れなかった。そうだ、札幌でもデパ地下では扱っている可能性がある。普段は魚を買いにデパートまで行くことはないので、そこまでは知らない。カツオも絶品であった。お酒の入った数時間も、その後のナイトクルージングも楽しかった。伴走船2隻は闇夜を走査するサーチライトのように忙しく移動を繰り返し、白い波頭で幾何学模様を波間に描きながら我々を護衛してくれた。おっとりとして穏やかそうに見えていた教授氏は、戦闘的で荒っぽい舵捌きをすることが分かった。教授会での論戦でも機敏な弁論をして、優勢になれそうに見えた。いざとなったら、「外野はすっこんでろ」とか言ってさ。こら、女にもてるど。車の運転もそうだったかも知れない。セシリアも、そうした決断力に満ちたスピード狂の家系の血を受け継いでいただけなのだろうか。
 何の心配もなく自由に過ごせた時間だった。この夜は私はホテルに投宿して(一人ずつ個室を取ってもらっていた)、ほどなく寝込んでしまった。
 父のことは思い出さないと昼間決意していたのに、まだ無邪気に幸せだった小学校低学年のころ、私が父、母、兄と揃って全員で手をつないで、夕食後に夕日を浴びて家の近所を散歩している何度も繰り返して出てくる夢を見ていた。全員で手をつないでと言っても、腕を前後に振りながら、かーごめ、かごめ、と歌っていたわけではない。それだと台風のようにぐるぐる回ってしか前に進めないし、目も回ってしまう。私は父の顔を見上げ、母の笑顔を見て、兄とはなるべく視線を合わせないようにして歩いた。兄は両親にはバレないように時々私に意地悪をするのだった。
「ふんっ、兄ちゃんなんか」
 目覚めると目頭が湿っていた。もう一度だけでいいから、ああやって一緒に歩いてみたい(兄には蹴りを入れたい。黙っていれば、夢の中だけでの復讐はバレない。くんにゃろー、くんにゃろー、外人レスラーみたいな真似はやめろー。レーザー光線を当てて豆のように小さくして、パクッと食べてしまうぞ。でも、悪運が強いから、そのまま消化されないでスッポンっと出てくるかな。その豆を庭に植えてみたら、兄が生えてきました、とさ。「お前だろ、やったの? ちょっとこっちに来い」「兄上、その前にまずシャワーを浴びてくんなまし」)。
 またあのころのように、日曜日の朝、ゆっくりと起きて食事を取った後で、流しに4人並んでさっさと茶碗を洗って、前の日にたくさん買っておいたケーキやお菓子を一緒に食べて笑いたい。父はコーラが好きだった。その泡がはじける前で、ボクは氷の音をさせながら大好きな清涼飲料水を飲んで、その一週間起こったことを兄に邪魔されずに父に聞いてもらいたい。母は健康への影響を考えて、母の管理下でしかボクらに炭酸入りの飲み物を飲ませてくれなかった。厳しいのこれが。もし鍵付きの冷蔵庫を売っていたら、その機種に買い換えかねないほどのきつさだった。
「もう少しぐらい飲んだって、いいっじゃないっかよう」
 だから、子どもの間中、ボクは早く大人になって炭酸飲料が好きなだけ飲めるようになりたいと思っていた。泡が盛んに上がって行く明るい海の中を水中メガネを着けて泳いでいる夢を何度も見たこともあった。だが、父が亡くなったその日から、ボクはコーラを見ることができなくなった。どうしてコーラの横に父の顔がないのか。友だちが自販機で飲み物を気楽そうに選んで飲んでも、ボクは結局コーラも似たような飲み物も何年も飲めなくなっていった。匂いを嗅ぐだけで吐きそうになったのである。この症状は大学に入ってようやく否応なしに矯正できた。いつもウーロン茶しか飲まないでいて修行僧のように見られては、友だちの手前都合が悪かったのである。
 他の多くの家庭でなら何百回となく続いていたであろう日常のありふれた生活が全部夢のまた夢となってしまった。
 翌朝は見事な晴天となった。風水を取り入れて、真ん中に軽飛行機ぐらいは通過できそうな大きな穴を開けた設計のホテルのオーシャンビューのレストランでは、朝食が和洋中に加え、韓も選べるバイキング形式で用意されていた。北海道に来たら、これにさらに「道」をプラスしてやる道。ここで、ライ麦パンのトーストに本ワサビを厚く塗りたくっている欧米人を見た。バターと勘違いしている風でもなかった(色がまったく違います。ワサビ色やバター色の犬がいたら大人気になるだろう。さう言へば、かのバター犬はどこへ行ったのでせうか?)。きっと、「これは、ずんだ、というんだ。東北の首都・仙台の名物だよ。キミも食べてみたらどう、my dear(私の鹿さん)」なんて自慢をしていたのだろう。すると案の定、その客の座ったテーブルの方から、“Oh, my God! Sxxx!”という叫び声が聞こえた。馬鹿め。そもそも、そう簡単に神に救いを求めるな。両耳の穴から煙が出てきている。他のある客は、どこでどういう育ち方をしたのか、味噌汁をお椀によそったその場で立ったままその中身をすすり始めた。しかも、片方の親指は汁に突っ込んで、2本の箸も握りしめている。と思ったら、むせて激しく咳き込んだ。蓋もしないままである。こんな下品な客を金目当てで泊めさせてはいけない。
 この勝浦沖で、戊辰戦争の際に箱館に兵を送る途中で暴風雨に襲われて沈没したハーマン号という蒸気船の残骸が発見された。
 勝浦からの帰り、昨日は少しぼやけていた富士が、クルーザーの真っ正面にどかんと見えた。Mt. Fujiとタイマンを張るのは初めてだった。デイビッドは途中で周囲の船の数が減ったころに、「ほんとは違法だけど」とウインクをして私に舵を預け、短時間操船までさせてくれた。私はデイビッドと並んで、腕を鍵型に曲げてデュエットをしてしまいそうになった。この顔に父の顔が重なって見えた。私は15分ほど操船を味わうことができた。車の運転を経験する前に船を動かしたのである。海底近くを潜水艦が隠密航行していたかどうかは分からない。覆面同士がごっつんこ。事故を起こさないように舵をセシリアに任せ、鼻をかんだ。クルーザーは無事マリーナに帰還した。違法操縦はたぶんバレずに済むだろう。
 エナメルを塗ったように見える純白のウッドデッキに降りたセシリアの2人の女友だちは、それぞれ私と一緒にクルーザーを背景にしたツーショット写真を撮って、こっそりと私のメールアドレスと電話番号も聞き出して、小声で、「きっとまた近々お目にかかりませうね。では、ごきげんやう」と囁いてから帰って行った。昨日、今日と2日とも、この2人がどこの学生なのか、という基本情報についてどちらにも聞くことができなかった。船上でも陸でも、セシリアが常に監視塔のような絶妙の位置にいて、質問しにくかったためである。ここに、女性は同性の親友を持ち得るか、という古典的な問いが立ちはだかる。
(「油断できないわねえ、女友だち同士って。シッシッ。取らないでね、この人。私が見つけたんだからね。あなたがたは二番抵当権以下なのよ。質権も設定禁止よ」)。

第43章 住んでいる世界が違いすぎる https://note.com/kayatan555/n/nc8173e5327ad に続く。(全175章まであります)。

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