『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第69回 第57章 神経戦
この「ミカンちゃん+はとこ事件」の約1ヶ月後、大相撲にある懸賞幕が出た。しかも、企業ではなく個人が提供した珍しいものであった。
懸賞金を出そうとすると1場所約90万円かかり、これに加えて旗(幕)の制作代金が必要である。しかし、国技を振興するための懸賞であるため、大きな宣伝効果が期待できる。
相撲の実況中継では、懸賞幕が土俵を回り始めるとカメラが退いて、しかも画面には取り組み相手同士のこれまでの主要な対戦成績が表示される。なるべくスポンサー名が目立たないようにする配慮からである。
その日、モンゴル人の横綱たちが登場するのはまだ先だった。場内もまだそう緊迫した空気ではなかった。拍子木の音が場内に響いた。塩が舞い、汗が飛び、しわぶきのようなざわめきが続いた。
その時、実況アナウンサーの近くにいた前頭の力士が、「えっ、知らねえなあ、どんな会社だ? ネットテレビの新顔か?」と言った。土俵に計4枚上がった懸賞幕の中に、あるローマ字だけの幕が1枚あったのだ。何と書いてあったか。
“JB!”
このメッセージの申請が相撲協会から拒絶されるのではなしに、懸賞主の請求通りに土俵上を巡ったのである。場内は特にどよめかなかった。観客はこの観戦の後のそれぞれのお楽しみの方で頭が一杯だったのだ。例えば、「まず屋形船に乗って天ぷらを食べて、小料理屋に行って、奥座敷でオレはこう出て、相手がこう来る、そうするってえとだなあ」というような図上演習の最中だった。
実は、この幕はよくある企業の宣伝目的で出ていたのではなく、個人的なメッセージだった。力士たちはすぐにこの懸賞幕への関心を失っていった。別にどんな会社だっていいだろう。オレたちは怪我をしないこと、糖尿にならないこと、写真を撮られないこと、の3つが大事だ、と親方からの訓示を頭の中で反芻していた。
(「4つ目もあるんだがなあ。あいつらそんなにたくさん覚えられんだろう」)。
だが、ボクにだけはすぐに分かったのだ。意味は「Joeのばかぁ!」だった!
オレの名前が漢字で出ていなくて良かった。それにしても手の込んだことやるなあ。金持ちのお嬢はやることが違う。オレに直接メール送ってくればいいだけのことに、てて親を巻き込んでさ。
最近、相撲の世界では、土俵上よりもその周辺での揉め事が絶えなかった。すると、一種のガス抜きを計ってか、前例に若干の手直しをしてみることもあったのだろう。JB!という幕について、「別にいいんじゃないっすか、乱数表でもないようですし」というような判定があったのではないだろうか。
その後もセシリアからボクに対する監視や変化球での働きかけが続いていたかどうかは分からない。気まぐれなので、あっさりと止めてしまったのかも知れない。付き合っている相手がボクだけだったと推定する根拠もなかった。男女には焼き場の炉の蓋が閉まるまで新たな出会いの可能性があるのだ。
「どう、トメさん。私と一緒に人生もう一花咲かせようじゃないか?」
「うっすらと
蓮の花しか
見えませぬ」
少なくとも相撲協会を煩わせる形での働きかけはなかった。それでも、懸賞幕を使うとはよく考えたものだ。スポーツ紙ぐらいには出る可能性があったからだ。
「いま話題の大相撲の懸賞! これがJB!の訳だ!」
このメッセージのせいで、ボクの潜在意識の中に彼女の怒りときつい目付きがしっかりと刺さり込んでしまっていた。高額の懸賞金はじんわりと実効を発揮していって、ボクというセシリア姫のお尋ね者を、言わば「奇妙な果実」に変えていったのであった。(もう逃げられないど。蜘蛛の巣の上に絡め取られた昆虫だ。でも、それにしては一向に「蜘蛛」が出て来ようとしないようだ)。やれやれ、ぐったり疲れるぜ。と言って、ボクは具体的に何の反応もしなかった。クールに何もしないことが最上の対応ということもあることを、ボクはそれまでの女性たちとの交際で察していた。今回それが正しいのかどうかはまだ分からなかったが。
第58章 「憲兵隊長」セシリア(前半) https://note.com/kayatan555/n/nf8877cbe0eee に続く。(全175章まであります)。
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