『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第22回 第19章 札幌の高校から東京の大学へ
時間は少し溯るが、大学進学にまつわる話題のドサクサに紛れてひとつ余計なことを告白しておく。私は入学早々に逆ナンをされてしまったのである。(ここも話が長いぞ、覚悟しろ)。
札幌、そして広く北海道の人間は異なる環境への適応能力が高く、まるでiPS細胞のようなものである。それぞれ住んでいる場所の日本人移民の定住地としての歴史が浅く、過酷な自然環境や社会の大変動と対峙して生き延びてこなければならなかったからこそ身に付いた特性である。生まれた札幌やその他の地元に居続けてもいいし、東京に移ってその当日からまるで東京生まれ、東京育ちのように自然に振る舞って生きてもいいし、博多でむっちりと半ケツを見せてお神輿を担いでも様になるだろう。また、外国暮らしでも、先進国の大半が北海道と似通った寒冷地にあるため、服装から車の運転から日常生活の様々な備えに至るまですんなり現地に溶け込みやすい。また文化的にも、因習に囚われにくく、開拓の歴史の浅いアメリカ人のように気さくに現地に馴染んで行ける。
札幌生まれのボクも、朝の天気予報で首都圏の天気や予想気温が映されていても、まるで生まれながらの都民であるかのように東京都にしか関心がなく、その都内に住んでいる深い安堵感を覚えるのだった。
「あれー、オレ、どこの小学校出たんだっけ? 目黒かどっかだったっけ?」
都内以外の天気など、どうでもいいのだった。あの日が来るまでは。
何しろ親元を離れて大学に入るというのは誰にとっても人生の一大事なのである。あらゆる事柄が初めての連続であるため、全部思い通りに行くはずもなかったのだ。何もかも親に頼ることはできないし、地方から出ていって不動産屋でアパートを決めることからして大きな試練である。
「お客さん、クニどこ? 樺太の北部あたり? それともTube代表?」
「この顔がロシア人に見えるかえ?」
「うーん、どっちかって言うと、少数民族の方かな」
上京者はそれぞれ一種の少数民族である。「かっぺ」と言われるのが一番怖くて、極力喋らないようにしている方言のきつい地方出身の人々も少なくないようだ。その点、イントネーションの一部を除き、かなり標準語に近い言葉を話している札幌出身の人間の多くは、そのような不要な警戒などなく、あっけらかんとして東京で暮らしている。
「かっぺ? オレが? そうだけど、別にいいんじゃない? 意味が通じて仕事ができれば」
その東京は札幌より830km南にある。それだけ赤道に近いのである。第一、日差しの角度からして違っている。日時計の影の長さが札幌と東京でははっきり違っているのである。日時計と言えば、時計の針が(右手を左胸の位置から頭の上に上げる)右回転になったのは、時計が発明される前に、北半球にあるエジプトの日時計の影がその方向に回っていたためである。しかも、ごく限られた場所を除き基本的にゴキブリが皆無の北海道から首都圏に引っ越すというのは、この北アフリカから世界中に広まった人類の敵が、いつ何時家具の影から触覚の先っぽをチロチロと見せるか予想できないということでもあった。北海道の人間の多くは、ゴキブリを一度も見ないまま一生を終えることができるのである。むしろ、いずれも外来種のカブトムシを見かけたり、アライグマに遭遇して威嚇される可能性の方が高いぐらいである。このことをインドネシア人に話したら、「だったら、輸出してあげる」と言われた。要りません。また、ミラノから仕事で札幌に来ていたデザイナーを案内して歩いている時に、生まれて初めてゴキブリを見たのは20歳になってからで、それも広島でだった、と説明したら、「そりゃあ、幸せな子ども時代だったね」と羨ましがられた。イタリアのゴキちゃんって、どんな色だろうね。ちょっと気になるね。まさか、国旗のあの3色じゃないよね。大きさは? 道内産のなまこぐらいになるんだろうか。随分高いよね、あれ。それともアメフラシ?
こうして、道産子は、進学、就職、結婚などで東京に行って初めて遭遇する、というのが典型例である。敵との初対面の時には、その物体が何であるか数秒間分からない。薄っぺらい蝉かと思いきや、そうではなく、突然思い当たる。大坂(違った。幕末物の読み過ぎだ。大阪に訂正)出身の知り合いは、真夏窓を開けたまま夕食を取っていたところ、大きく口を開けた瞬間に、家の外から飛んできたゴキブリを噛んでしまったそうである。どんな食感でした。
「こんあほっ! 人の不幸をどない思うてけつかんねん。(にっこり笑顔で)うまかったでえ」
私の東京時代には、運良く計4回しかこの試練に出会わないで済んだ。寝ている間はどうだったか分からないが。
「あら、勘がいいわね、あなた」
(あんた誰?)。
第20章 入学直後のクラブ選び https://note.com/kayatan555/n/n55859bed31cd に続く。(全175章まであります)。
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