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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第51回 第41章 タイマン、そして出港 (後半)

 南東に進んで、房総半島沖を回って、黒潮を横切って半島のぎざぎざした場所にある勝浦港に入港するのである。「勝」「浦」、いい名前だね。何だか縁起が良さそう。本当はジョイスティック1本に切り替えても操縦できるのだが、気分を出して、この父親はチーク材の丸い舵を小さな舵に被せて使うことにした。普段はしまい込んであるこの舵を取り付けると、親切にも私にも使い方を教示してくれた。「面舵(おもかじ)、取舵(とりかじ)」
 ああ、随分昔に私の父から教えられた操舵法だ。私が多分まだ3歳ぐらいのころだった。
「さあ、どっちが右に回す方だった? 言って見なさい」
「みぎってどっち?」
「それは簡単だ。左でない方だぞ」
 左手の王の話は父から聞かされていたのだろうか、それとも高校生のころに私自身が読んだのだろうか。記憶が判然としない。
 海上では誰が海に落ちて死亡するか分からないし、死体が見つかる保証もない。つまり、船の乗員全員がいざとなったら最低限の操船を換わって担当しなければならないため、このデイビッドは舵の操作法を私にも教えてくれたのだ。親切心だけでなく、実務として不可欠の配慮だったのだ。その妻、つまりセシリアの母親のデザインした船長帽を被っている。横浜元町で売り出しても、いやそれどころか、ネット販売をしても世界中から引き合いが来そうな魅力的なプロの出来映えであった。無精髭がセクスィー(妻の方ではない)。右手首にはプラチナのブレスレットがはめられていた。何もかも様になっているのだよ。だが、私は人の右手首を正視することができない。子どものころからだ。
 エンジンが始動し、デイビッドは厳しい顔になった。集中力100%だ。す・て・き! だが、身に付けているライフジャケットの下の方には、風船ガムのシールが貼り付けられている。セシリアが小学生のころ流行っていた少女マンガのキャラクターたちだ。大きな星の目。とっつぁん、そんなの剥がしたら? 娘のことは、ついつい甘やかしてしまうのだろう。それとも、もしかして(もしかして)、そうした代物が貼り付けられていること自体に気付いていないんじゃないの?
 風が当たる。デイビッドは、規制の多い海域を衝突事故のないように最高度の緊張と警戒で進んで行くのだ。その判断力と技術に、乗船している全員の生命がかかっている。
 男の人生の厳しさと闘って行く心構えも、様々な要注意点も、私は何一つ父から手ほどきされていない。父は生前は医師、研究者として多忙すぎ、しかも、早く病没してしまったからだ。私にはなぞるべき、反発すべき、ロールモデルが存在していなかったのだ。
 表面的には私は人生の成功者と見られてきた。スポーツもし、学業成績はしばしば学年トップで抜群に良く、先生方からの覚えも良く、名門高校から現役で全国最上位のひとつの難関大学に合格、進学を果たした。だが、心の中はいつも羅針盤のない葛藤と癒やし処のない哀しみと絶望感に喘いできた。私は、父を喪ったあの日からずっと、誰でもいいから掴まえて、その胸の中で大泣きしたい衝動を必死に抑え込んで生きてきたのだ。
 それが、晴れて憧れの大学に進学できて、しかもこれほど頼りがいのある大人の男の自信たっぷりに操船するクルーザーに乗って、さらに、ひょっとすると私の恋人になるかも知れない美しく優秀な医学生やそのいとこの大学教授、横浜山手のお嬢さんたちと一緒にゆったりと談笑していると、まるで自分までそうした人々のように恵まれ切った境涯で生きてきたかの錯覚に陥りそうになっていた。
 風が心地よかった。それでも、身近に幸福そうな人々を見かけると、自分の頼るべき父はもうとっくに亡くなったのだ、あの声は2度と聞けないのだ、と激しい憤りの渦に巻き込まれそうになっていった。オレのような弱者は本心は決して誰にも明かしてはならないのだ。オレは、前だけを向いて生きてきた。出来心で横を向いたらfall in love. 父さん、父さんのことはこれまで通り時々しか思い出さないようにするから。
 外海はマリーナの内側とはまったく異なって、荒波そのものであった。江戸時代に上方から小さな船で遠州沖を通って江戸や銚子を目指して物資を運んできた商人たちは、どのような感慨でこの付近の水域を航行したのだろうか。私は北斎の天才を思った。いったん天才が通った後の道を、凡才が付け替えることは不可能である。航跡を振り返って見遣ると、低めの雲と隣接して富士山が見えた。1707年に宝永大噴火を起こして以来、大規模な噴火はしていない。もし、次の噴火があったら数千万人が被害を受けるだろう。
 露天風呂
  富士が
   お久の大噴火
 クラカトアの大噴火を描いた映画では、波が画面一杯に襲ってきたのだ。

第42章 勝浦 https://note.com/kayatan555/n/n6b78a36f2f26 に続く。(全175章まであります)。

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