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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第16回 第14章 私の誕生前後の慌ただしさ

 そもそも、最後の「ン」はなぜ付けられてしまったのか。それは、私の医師の父が、勤務していた大学病院で事件に巻き込まれたのが原因である。母が私の出産のために入院した翌日だった。
 目の手術を受けて1週間ほどの入院患者が、点滴を受けたまま病棟6階の廊下をゆっくりと散歩していた。
「リハビリの先生、もう少し痩せた方がいいな。人にきつい号令かけてないで、自分がもっと運動してみたらどうだ」
(あーうるさいざんす。毎週ジムに通っていて、これでも15キロ近く痩せたんざんす。たった2日歩かないだけでも、筋肉はすぐにずるく怠けて衰え始めてしまうざんす。膝の上の筋肉がバロメーターざんす。そもそも、担当医の先生の医学的判断でそれぞれの患者さんに一番効果的なプログラムを組んでいただいているざんす。少し辛く感じるぐらいじゃないと意味がないざんす。つべこべ言わず、さっさと歩くざんす。はい、もっと腿上げて。眉毛まで上げてって誰が言ったざんす?)。
 その時、父は5階を歩いていた。この患者と同じ方向に向かってだ。電話が入った。
「奥様は順調です。おそらくこのまま予定日にご分娩となりそうです。また2時間後ぐらいにご連絡します」
 別の病院の産科からだった。男の子か女の子か事前に知らせてもらわないことにしていた。父は思った。
「いちいち電話は体に悪いな。メールでいいからって指示しておこう。2階のICUに行く前に、ちょっと屋上まで上がって手稲山を見て心を落ち着かせよう。香港のカンフーのスターも時々来ているんだってな、あそこ」
 頭の中では、妻、長男に加えて、あと数十時間で対面できるはずの第二子と一緒にあのスロープをスキーで滑る様子が浮かんでいた。昼は何を食べようか。一家揃って笹の近くでおにぎりもいいなあ。でも、うちの子グマたちに食べさせてやりたいんで1個でいいから恵んでくださいって母グマに前足を揃えてせがまれたら、どうやって断ろうかな。
「お願いします。うちはご覧の通り、母子家庭なんです」
 そうだ、目を合わせないようにすればいいんだ。
 エレベーターの横には、「隣接する階にはなるべく歩くようにお願いします。総務課」との表示が書かれていた。
「はいはい、2階分ぐらい歩きますよー」
 1階上のある病室内では、他の入室者がひとりもいなくなっているのをいいことに、その部屋の退院間際の入院患者が規則に違反して愛人に密かに持ち込ませていた、おとなしい子どものカピバラを2匹乗せたラジコンカーをぐるぐる8の字に回転させて走らせて遊んでいた。ところが、カピバラの片方は過食気味の小学生の相撲部員のような体型で(とは言え、頭を髷にしてみたり、まわしをつけてみたりまではしていないでごんす)、その鏡餅を思わせる重量のせいか、柔らかいタイヤが1輪緩くなってゆき、ついに脱落して接線方向に転がっていった。このラジコンカーは、にわかにバランスを崩し、急カーブを描いて、ドアのない、入り口に暖簾のような半カーテンが吊り下げられているだけの病室から飛び出してしまった。落ち着いた表情のカピバラたちの短い体毛が揺れる。遠心力に耐え、加速度に動じない後ろ姿が健気である。
 父はフェルト帽、和服、巾着袋、ステッキの見舞客に呼び止められて、恭しく挨拶をされていた。樟脳と入れ歯の臭いがした。
「昨年は先生に娘のガンを早期発見していただき、どうもありがとうございました。職場に完全復帰できています」
「それはよろしかったですね」
(補聴器をしててもあの声の大きさだ。耳毛は時々抜いた方がいいんじゃないか)。
 廊下を低く進む暴走車はそのまま猛スピードで走って行って、眼科患者のかかとに衝突してしまった。カピバラたちは、前のめりになったが、すぐ元の姿勢に戻った。これがちょうど廊下の隅で階段に差し掛かる場所の近くだった。そこで、片目にガーゼをした患者は不意のことで、遠近感の掴めない視野の中で逃げようと小走りになり、階段の手すりでなく、金属の点滴スタンドを握ったまま階段を落ちそうになった。折悪しく、下の階から上がってきた父が、かかってきた院内電話に出ようと、後で捨てようと思いながら忘れていた感染防止用の薄い使い捨てゴム手袋が中に入ったままの白衣のポケットに手を入れようとしたまさにその瞬間であった。
 父は咄嗟に助けようとしたのだが間に合わず、土俵際で力及ばず倒された力士のような姿勢でごろごろ回転して階段の踊り場まで落ちてしまった。巻き添えを喰った父は、瞬間的に柔道の先生のことばを思い出して頭部を前に傾けたので自分の脳はしっかり守れたし患者も軽傷で済んだが、強打した肘から手首に至る箇所に熱が出て、他の数カ所にも打撲傷を受け、10日ほど手術の担当から外してもらわなければならなくなった。立証が容易であったため、労災保険があっさりと適用された。
 転落事件の原因を作った入院患者は、頬被りをし、唐草模様の風呂敷に手荷物をまとめて背負って非常階段から逃げ出した。院長からの退院許可も取らず、入院費の精算も済ませずにである。体の前に抱えたリュックに入れたカピバラたちが2匹暢気そうな顔を出していたためか、近くの歩道で職務質問にあったが、「家出カピバラを保護する活動をしています」と言い繕った(「ボクたち家出なんかしてないもん。一日中温泉に浸かっていたいんだもん。あー、じゅわー」)。
 この事件の緊急報告を受けた母はショックを受け、そのせいか、にわかに陣痛が始まってしまい、私は予定日より2年ならぬ2日早く生まれることになったのであった。私のせっかちな性格はこの時に溯るのである。

第15章 祖父に起きた大事件 https://note.com/kayatan555/n/n1d07eb67697e に続く。(全175章まであります)。

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