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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第84回 第68章 岩内の寿司屋で豪華なディナー (後半)

 後者の案を実行する可能性もあったため、担当候補者は筋肉注射の練習をしておくように指示された。針が神経を傷つけると麻痺が残ってまずいので、この部員は、桜島大根を手に入れてきて大理石に見立てて彫刻刀で尻の彫塑を作ってから、塗料をスプレーして着色までして、ちょうど血管の真上を狙って刺すようにイメージしながら何度か注射針を刺してみた。しかし、実地には衣服の上からの注射を想定していたのでこの訓練は無意味だった。唯一の例外は、寿司屋店主が夜桜の映える例大祭で御神輿を担ぐ時のような手慣れた法被姿できりりと締め込みをして寿司を握っている場合だけだっただろう。それなら肌が露出しているので、血管の位置の見当をつけることも可能だっただろう。
 ボクらはまだ学生に過ぎず、医師免許を持っていなかったので、本来は他人の体に針を刺すと正当業務行為による違法性阻却が働かずに、さらに有責性を満たせば傷害罪が成立してしまうのだった。それなのに、ひたすらアホだったボクらはそのような刑法上の考慮にまで硬度の高い石頭が及びもせずに、食欲だけが前面に出て、厚い檜の一枚カウンターに向かった豪華なディナーを思い浮かべながら岩内港を目指したのだった。岩内と言えば夏目漱石である。本籍を20年以上この地に置いていた。寿司目的で港に辿り着くまでの操船の危険と苦労は大きかった。目の前に人参をぶら下げて、海上でパン食い競争をしていたからこそ、辛うじて苦しさに耐えていられたのだ。
 詳説するまでもなく、A案もB案も明らかに不適だった。実は、さらにC案もあったのだが、仲間たちとの信義を裏切る訳には行かないので言及は避けて秘匿しておきたい。だって、それは岩内。約束でしょ。
 本番では幸い資金は十分に足り、ボクらはA案もB案も、ましてC案も実行に移すこともなく、たまたま臀部を剥き出しにしていなかった寿司職人の威勢のいい声に送られて、客たちが食事後に指先で触って出るために布地にワサビ、ガリ、むらさきの匂いの染みついた暖簾をくぐって満腹・ほろ酔いで店を後にすることになった。その残り香は顔の周りに少しの間漂っていた。船に戻ってからその日の航海日誌をつけるまで忘れないように地酒の名前を反芻しながら振り返ると、数人の客が数メートル前から馬跳びを繰り返して勢いよく暖簾の奥に入っていった。中では、こんなやり取りがあったのかも知れない。
「え、いらっしゃい。お晩でした。いつもごひいきにしていただいてありがとうございます。他の方たちは今夜はご一緒じゃなかったんですか」
「あいつらはきっとまた一升瓶抱えて沈没してますよ」
「しょうがねえですね。何から行きましょうっ。今日はね、こないだのあれ入ってますよ」
「競馬、でかく当たったんで、今晩は全部オレのおごりっす」
「じゃあ、お代は先決め50万円ということで、ひとつ」
「ポニーの競馬だったからなあ」
 航路はまだ中盤にさえ達していなかったが、ぼくらはひとまず海上保安庁から追跡されてスピーカーで「そこの一隻、左に寄りなさい」と命令されたり、投光されたりする事態にもならずに済んだのである(めでたしめでたし)。
 新しい港を出港する度に、船上ではしばし雨夜の品定めが続くのだった。
「可愛い子だったな、あの大将の娘さん。高校2年生だってよ」
「和服で店内を歩かれたら、大抵の男は落ちちゃうぞ、清楚さを絵に描いたような16歳」
「もうちゃんとボーイフレンドいるよ、あれだけきれいだったら」
「うーん、許せんっ。医大中退してあの子の高校に編入を申し込むか」
(この最後のところ、部長の発言ですからね)。

第69章 津軽海峡の荒波を越え https://note.com/kayatan555/n/n35c50b2571bc に続く。(全175章まであります)。

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