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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第127回 第97章 外語大入学直後の回想 (前半)

 夜の静けさの中で、思い出は暗闇の奥の遠い過去へと遡って行く。これは一般人向けには貫通しているはずなのに、一部の人間にだけは通り抜けることのできない魔のトンネルだ(長隧道闇子でーす)。
 上京したてのあの4月を振り返ってみれば、ボクは、どこかのクラブに入っておかなければならないという強迫観念に迫られていた。高校に入った時には同じ中学出身の生徒が何人もいたので、何とはなしに心強かった。でも、外語大にはひとりの知り合いもいなかった。東大その他別々の大学に分散して東京や横浜、千葉、筑波に出ていた親友たちはそれぞれセーターに編み込まれて行く毛糸のように、自分の大学の一番下の構成部品として組み込まれていった。毛糸玉は毛糸が引っ張られるたびに、否応なしにあちこちに回転させられていた。爺様、婆様たちが腰をさすりながらゲートボールに出かけてしまうと、その自宅では邪魔されないのをいいことに、ネコたちが毛糸ボールでがんじがらめになっていく。
「ニャー」
「ニャー」
 何色もの毛糸まみれの、冷や麦のように見えるネコは、窓を開けて外に砲丸投げのように放り投げておいて(「ニャー!」)大学の話に戻るが、ボクは他人に相談することはできず、自分自身で所属すべきクラブや同好会を探り当てなければならなかったのだ。
 曇り空の朝、ドイツ語の辞典を2冊も入れたリュックを背負って中央線を西に向かう車内から、ある病院の小さめの看板が目に入った(当院は控え目な経営方針を採用しているとです)。中学の時にちょっと診てもらっていた遠戚の内科の先生と同じ姓が書かれていた。その先生は結核を克服して医学部に入って、少しずつ体を鍛えていって、ついにボディービルにはまった経歴だった。
 この先生から、次のように言われたのを思い出した。
「もう大丈夫だと思うぞ。また何かあったらすぐ電話してきて受診しなさい。そうだ、何かスポーツやってるか。せっかく習わせてもらっているんだからピアノもやめない方がいいだろうな。老眼鏡で書斎のアップライトピアノを弾くインテリっていうのは格好いいぞ。
♪ ドジ踏んじゃった〜
  ドジ踏んじゃった〜
  拙者の人生返せよな〜っ
 てな。下の階から槍で一突きされるかも知れないがな。上からも、両隣からも、はっはっは。まるで手品の箱に入れられて、その箱にナイフを何本も刺されるみたいだな。ああ、スポーツの話だったな、何かひとつ今のうちに選んで基礎を身に付けておきなさい。自分がインテリだと誤解したりしないで(ほんの少し前の言い方と矛盾してるんですけど)、頭より体を鍛えなさい。何がいいかな、いや、これは自分で決めないといけないな、と言って、親戚だからな、少しぐらいアドバイスしてもいいだろう。ずばりテニスをやれ(しっかり押しつけてるやん)。想像してみろ。60歳でバドミントンはできるか。急性心不全になるのが関の山だろう。シンクロナイズドスイミングはどうだ。体をくるくるさせながら潜っていくと、ネジを切った円錐形の頭がそのままプールの底にドリルのように回転して固く突き刺さってしまって抜けなくなるぞ。留め金があったらアウトだな。カチッ。どっちを選んでも、日本国民の平均寿命を僅かながら下げることになるぞ。テニスなら重力を制御して(ほら吹きの気のある先生だった)、ストップモーションにしてゆっくりボールのやり取りができるから、一生続けるのにいいぞ」
 遠戚と言っても、ボクと具体的にどこでどうつながっているのかは忘れてしまった。配管工に聞いてみようか。乗換駅が近付いてきた。

第97章 外語大入学直後の回想(後半)https://note.com/kayatan555/n/nd24eadf8f681に続く。(全175章まであります)。

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