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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第120回 第91章 外国語で生きられないか (後半)

 こうした病院を離れた経験は一回一回なかなか楽しいのだが、札幌在住では専業にするほどの仕事量にはるかに及ばないし、あっても医師に比べ収入は15〜20分の1程度が上限である。これではお話にならない。私は独検1級と並んで通訳案内士国家試験にも受かって東京都知事の発行した免許証を持っている。国家資格だが、免許発行事務を地方に委託しているのだ。医師になったのは北海道に戻ってからであるが、その前の黒外語大生の時代に、東京の第一線のドイツ語通訳ガイドのひとりになっていたのだ。今はもちろん学生時代よりはるかに短い学習時間しか取れないが、接続法第I式、第II式も含む動詞の活用を一定期間ごとに復習して間違いがないようにして、最新の語彙を含む実力を維持すべく努力を続けている。名詞の性を正しく覚える工夫として、月曜は男性名詞、水曜は女性名詞、金曜は中性名詞のみに絞って暗記する方法がある。この文法上の性別について記憶違いになっていくことを性の乱れという。個々の名詞の性はひとつだけであるが、男性名詞では湖を表すのに、女性名詞では海を意味するSee(ゼー)のような例外もある。この場合は地図を思い浮かべて、それぞれ、ドイツの対スイス、オーストリア国境に位置するBodensee(ボーデンゼー。ボーデン湖)と、Nordsee(ノルトゼー。北海)の例で覚えると忘れにくい。
 一説には、ドイツ語に限らず、外国語で専門家の域に達するためには最低5,000時間の学習が必要だそうである。聴き取りと作文を優先しながら文法書を適宜参照し、リーディング教材を読み、問題集を解き、大辞典(私の例では、独独、独英/英独、独和/和独、独仏/仏独、独露/露独、独蘭/蘭独、独伊/伊独)を精読するだけでどれほどの時間がかかるか想像できるだろうか。国内だけでなく、ドイツ、フランス、オランダ、ベルギー、イタリア、ロシア、イギリス、アメリカで手に入るドイツ語の問題集を解くだけでなく、ドイツ語による大量の読書から、YouTube鑑賞、インターネットラジオの聴取、等々、休んでいる暇はない。つまり、東京、横浜、京都在住の通訳ガイドと同等の重たい負担がありながら、見返りがないのが、北海道における通訳ガイドの大多数の置かれている現状なのである。
 それに、英語と異なり、北海道観光向けのドイツ語での用語はそもそも見当たらないことも少なくなく、そうなると自分で工夫して造語することも珍しくない。
 こう分析すると、語学屋として生きるためには、札幌に居続ける選択肢はあり得ず、勢い、またあの地獄の暑さと年中続く過密、そして過剰にせわしない人々に急かされる地に戻らざるを得ないことになる。誤解のないように明言しておきたいが、私は心から東京が大好きな人間である。都市の成熟には時間が必要であるが、私の生まれ育った札幌は、まだまだ幼年期にあるに過ぎない。恐らくあと250年ほど経つと、それまでにとっくに無電柱化率100%を達成し終えて、大木化した街路樹が木陰と涼しい空間を市域全体に広げている風格ある世界的な大都市に変貌しているだろうが、そこまで私は生きていられない。それとも、ミイラに身をやつして待つといたすか?
 一方東京では、一般住民にも首都の構成員、立役者としてのプライドがあり、生業についてプロ意識があり、胸を張った隙のない生活を送っている。喋り方も堂々としている。しかも、私のような田舎者をもあっさりと受け容れてくれた風通しの良い気風を感じさせる。そうではあるのだが、その東京は地方に住んでいて所用で出かけて行って、その用件が無事あるいはともかく終わってから数時間ないし数日のみ余計に滞在して帰ってくる分には楽しく刺激的で有益な都市ではあるが、定住はご免と言わざるを得ない。学生時代と浪人時代の計5年も都内に住んではいたが、定住と言うよりも、最初から期間限定で長期滞在しているという感覚が続いていたのである。札幌の6月を経験したことのある方には、私のこのような歎息に共感を覚えていただけるかも知れない。札幌と東京それぞれの利点だけを合わせた場所はどこかにないだろうか。中間地点の山形県か宮城県あたりに作ってちょ。
 それとも、いっそこの年齢からでもまったく違う人生を狙ってドイツかカナダに移民するか。たぶん5年以上全力を傾ければドイツ語も英語もまともな実力に達するだろう。甘いかな? パリ、ロンドン、ボストン、ポートランド、台北、コルドバ(アルゼンチンの方)と他にも魅力的すぎる選択肢がいくつもある。これでは何百年生きても足りないぜ。やっぱりミイラ化作戦だな。ドラッグストアに行って包帯を大量に買ってこようか。自分で回る、くるくるくるくる。

第92章 ロシア語独習継続 https://note.com/kayatan555/n/n7da4799fd6a7 に続く。(全175章まであります)。

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