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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第68回 第56章 セシリア、ボクを曲解する

 こうしている間中、ボクはセシリアのことはまったく頭になかった。忙しくしていると心配事はできない、と実感した夜だった。今後は何か飲み会をする時には、事前に十分警戒態勢を取って、「世界最大の灰皿」と称して、部屋一面の床にブルーシートを二重に敷いておかなければならないだろう。それとも、敬遠してもう誰も来ないかな。それはちょっと寂しいけど、気を遣わなくてもよくなって、楽でもあるな。
 せっかく今日は大学で最近ちょっと気になりかけていた女のコもひとり来ていたのに、そしてそのコもボクのことを鍋から上がる湯気越しにちらっと見ていたのに、結局一言も話をすることすらできなくされてしまったぜい(愛の始まり未遂)。余計な事件が連続して起きて、すっかり邪魔をされて体も心も疲れ果ててしまったため、自分でも知らないうちに、着替えもせず、タオルケットも何もかけもせず、(蛇足を付けると、幣も取りあへず)、そのまま堅い床の上で寝入ってしまった。これは不覚でござった。普段から本棚の上にセットしてある直径15ミリの自動発進式超小型AIドローン・空(そら)クラゲ蹴鞠号の映像が後から見つかった。偶然、我々3人は川の字になって寝ていたのである。疑似家族ってか。撮影角度をキュッと90度変えれば三の字じゃね。同じ読みの「かわ」であっても、河の字になるにはピース不足であった。あと何人必要だ?
 外から小鳥のさえずりが聞こえる。まさか野鳥好きのおっさんたちが細く折れ曲がった路地に勢揃いして声真似の競演をしている訳ではあるまい。東京にはいろんな人間が混住しているから、あり得なくはない。まだ薄暗い。すぐにまた意識がなくなって寝てしまった。短い夢から覚めて次に目を開けると部屋の中は昼間よりは気温が低かった。窓ガラス越しにも朝の光が目に眩しかった。東京にいる間中、ボクはこの強い朝日に慣れることはなかった。北海道と違い過ぎたからだ。
 見回すと、アクロバット失敗学生はボクに無断で帰った後だった。窓は閉まったままだったから、窓からではなく玄関の方からであろう。ドアを開けて出ていったとは、少しは進歩したようだな。テレビの画面に書き置きが貼り付けてあった。なるほど、ここなら間違いなく目に入るな。その他には、トイレットペーパーに巻物のようにして書き込む手もあったな。
「貴殿に対するこの度の不祥事誠に相済まぬでござる。拙者、反省至極でござる。また呼んでちょうよ(花よ)。さすれば、Alain ドロン」
(何、あいつ? ついでにお詫びに5,000円札ぐらい静電気で貼り付けていってちょ)。
 一方、昨夜問題を起こしていた女のコは、ステテコ、腹巻き姿でヒゲを剃っていた、そんな訳はないでしょう。すっかり酔いが抜けた様子で、ケロッとした笑顔で、北海道の人間が誰でもそのような表現をするわけでもないのに、「したっけ!」と挨拶をして早々に帰って行った。まるで、親戚のうちに遊びに来て、お喋りをし過ぎて終電に乗り損なって、「おじちゃんごめんね、今晩このまま泊めて」とでも言って、いとこの昔使っていた部屋の2段ベッドで一夜を明かさせてもらった後のようなすっきりした表情であった。
「あら、おばさん、この納豆私初めて食べるわ」
「ゆずの皮の粉末とかが入ってるんだって」
 今日以降、学内でばったり会った時、このコはどんな顔をするのだろうか。講義室とか、ロビーとか、カフェテリアとか、図書館とか。黒外のキャンパスはカンザス州ほど広くはないのだ。いっそ竜巻に巻き込まれて天に召されたかった。ライオンよ、泣くのはおやめ。
 小学生のころから可愛い子ちゃんのガールフレンドがいたボクとは違って、それまでの18年間の人生でただの一度もデートすら経験していなかったことを寝言で自ら告白してしまっていたこの女子学生の体の汚れを夜中に洗い流す時に、必要最小限の範囲で体に触らざるを得なかったが、いかなる性的接触などに至ることもなく、何も起きていなかった。
 ところがそのような室内での裏の事情は、入居者、闖入者が通路、階段、(窓の外)に出た時の外観のみからは分かりようがない。怪しい奴は怪しい。疑わしきは罰せずではなく、疑わしきはバッテンなのである。
 みかんが転がって、いやミカンちゃんが3階から降りていった時、階段の隙間からはサングラスでブルーパンダのような「青たん」(=青あざ)を隠した私設諜報部員が上を見上げていたのであった。気象観測をしていたのではない。死に神とガンを飛ばし合っていたわけでもない。バチ、バチッ。この「間諜」は、ボクのジーンズとTシャツを借りて、自分の不始末をした下着や服はゴミ袋に二重に包んで紙袋に入れて駅の方に向かって行ったフランス語専攻の女子学生を動画撮影して、すぐにハマに電送した。すると、2分も経たずに指令が飛んで帰ってきた。
「そのスケ、今すぐに消して。その後であなたもドロンと消えて」
 セシリアはあのファッションショーの後から、手下に私を監視させていたのだった。
「許さないわ、浄。何よ、私という女がありながら。それもよりによってあんな相手引っ張り込んで。少しは誇りを持ちなさいよ。そうでないと違う名前で呼ぶことにするわよ。どんな名前か想像できるわよね。あなたの名前と正反対よ」
(濡れ衣だよう。そもそもボクに声をかけてきたのは誰だよう? それに、ボクの名前の反対って、「汚」でおますか?)
 背の高いヒマワリが今日も風に軽く揺られながら首をゆっくりと捻り始めていた。
(「あっ、もげそう」「何がじゃ?」)。

第57章 神経戦 https://note.com/kayatan555/n/n60a89cfd73fa に続く。(全175章まであります)。

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