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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第178回 第144章 横浜再訪 Yokohama wiederbesucht

 デイビッドは、15年の歳月を経ていたが、私の顔を見て、最初はちょっとばつの悪い顔をした。二人の間で実際にはどちらも書いていなかった封じ手が水面の泡のように弾けて消えた。確かにあれは興醒めの事態ではあったが、でもあの泥酔号泣事件で、この父親は別に他人に何も具体的な迷惑をかけてはいなかった。お辛いなら、好きなだけお泣きなさいな。きっと少しは楽になるよ。ボクだって剃られてしまったんだよ、あの同じ夜に。一時的に小学生に戻っていたので、朝大学に行く時にうっかりランドセルを探しかけたんだよ。
「あ、算数の宿題やってなかった。うえーん。叱られるのやだよう」
 目の前のDavidが今度はボクの父になるのだろうか。やっぱり違うよな、でもオレもやり直しのきかない人生、こうやって大人になって行くんだな。その顔を見遣ると、酔いつぶれて泣きじゃくる大きな男の子ではなく、人生にいろいろ辛いこともあったに違いないのに、逃げずに修羅場に踏み留まって一家を支えてきた立派な大人の男の顔があった。男は巌(iwao)のように聳え立つ耐火壁でなければならないのである。その点を女たちに認識・評価されなくても一向に構わないのさ。「巌」は英語だとstalwartが一番しっくりくる訳語のような気がする。セシリアを抱きしめていたその太い両腕がボクの方に近付いてきて、ボクをも同じぐらいの力で抱きしめた。この相手をうっちゃってはいけない(残った、残ったー)。やってもうた。(ウソ)。
「さあ、中に入って。まかいへようこそ!」
(へっ、「魔界」でっか? そう聞こえたぞ。「賄い」料理の聞き違いだったらおいしそうだな。見栄えが悪くてお客さんには出せない部分の高級食材を入れたリゾットを出してもらえたりして。それとも、何かオレの知らない英単語だったかな? Mackayならオーストラリアの街だな。魔法が使えるなら、まずその薄くなってきた自分の髪の毛を増やしてみたらどうだろうか、五右衛門スタイルにでも。これじゃ、Auch haben Japaner immer etwas zu kritisierenだな)。
 ラクダは顔が老けて剥製になって壁に飾られていた。きっと、隣の部屋の壁からは首から下が出て尻尾をぶら下げているのだろう。その尻尾はシャンデリアのスイッチになっているのではないだろうか。マントルピースの上の地味なスウェーデン産の植物は、マリモほど成長が遅いのか、ほんの一回り大きくなっているだけだった。逆に縮んでいたら、先ほどの聴き取りが正しかったことが示唆されるだろう。
 勝浦へのクルージングと自邸での沈没を経て、この父親には二つの顔があることがボクには掴めていた。David S. Jeffersonのミドルネームは、何と小原庄助さんの庄助(Shosuke)であった。人間は弱い。図らずも「酒で自滅する情けない父ちゃんバージョンの庄助さん」も「自信に満ちて頼りがいのあるデイビッド」も、ボクは目撃してしまっていたのである。ドイツ語学習の端緒に就いたころのボクは、まだ18歳から19歳になったばかりで、余りにも人生経験が少なかったが、その後いささかの進歩を遂げているはずである。酒は善にも悪にも転がり得る。酒で人生を棒に振らないようにし、逆に人生を豊かにするための道具の一つとして賢明に利用できるようにするためには、酒に接する本人と周りの人間が努力を続ける他ない。

 ボクの人生は新たな段階に入った。この相手を本心からお父さんと呼べるようになるかどうかは、これからの数ヶ月で決まる。目下、ボクはこのデイビッドのtacit probation(暗黙の保護観察)下に入っている。期待に応えなければならない。ボクは浄であって、庄助になってはならないのだ。そのような内心の葛藤を察してか、デイビッドはボクに向かってにっこりとウィンクをした。クルーザーを無免許操縦させてくれた時以来だ。いいぞ、それでこそセシリアの父親だ。小雨でも一緒にジョギングに出よう。毎日筋トレをしよう。亡くなるまでもう二度と泣きべそはかかないでくれ、バージンロードを歩く間以外は。
「ところでセシリア、お前バージンか?」
「パアパア!?」

第145章 芝生の上での家族写真 https://note.com/kayatan555/n/ndb256efa9d0e に続く。(全175章まであります)。

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