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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第57回 第46章 大酒の翌朝

„Guten Morgen! Wie geht’s? お目覚めですか。あのぐらいのお酒で沈没だなんてね」
(四斗樽が空きかけたのに、あんたはウワバミか)と、すでに見覚えのあるシャープな顔の女性が、ボクの顎をイカ刺し、一刺し、いや人差し指で撫で上げた。次いで、水道橋でと同じに声を出さずに口だけを動かした。
「今TMって言った?」
「そ」
「どーゆー意味? 何の略?」
「ていもう」
「わっ! (数秒の後)。あー、ほんとだ。これって、法医学で言うところの」
「そ。パイパンざんす。来週剃毛の実習があるのよ。悪いけど練習させてもらったわ。でも、私一応あなたに聞いたのよ、いいですかって。あの後、パパをなだめるのにしばらくかかったわ。お尻を蹴り飛ばしたい感じだったわよ。それから、あなたをこの部屋に運んで、じょりじょりって『処置』したの。やってみるとなかなか難しいわね、場所が平面じゃないから。あなた拒否はしなかったわ。でも、写真なんかは一切撮ってないから安心して」
「いや、そういう問題ではなくてですね。丸っきり眠っていたわけですからね、イエスもノーもなかったわけで」
「何よ、男のくせに往生際の悪いこと。みっともないわねえ。人生努力と諦めが肝心でしょ。そんな情けない態度しか取れないんだったら、今度は3枚におろして三杯酢に漬けちゃうわよ」
 何よこの女、身勝手なことばっかりだわ、もうあたし知らない!
 まったく何と言うことだ。横浜に出かけて来た時は大学生の体だったのに、帰りは小学生に戻ってしまっていた。
「ぼく、何年生? この辺り危ない人たちが住んでいるから、気を付けて帰るのよ」
(手遅れだよ、どこの誰だか知らないおばちゃん。できるなら、昨日言ってもらいたかったよ)。
 何だか下半身が終始スースーする感じがした。Aftershave boyにされてしまったのだ。これからどんな顔をしてセシリアと話ができるというのだ? この後しばらくの間、ボクはセシリアに一切連絡をすることができなくなってしまった。向こうからも何も言ってこなかった。
 アパートにシャワーはついているけれど、時々チャリで東京の銭湯巡りをして楽しんでいた。イタリアなら、つるバラを植えて、そのバラが石壁伝いに2階、3階と伸びていそうな入り口の両側の位置に、ヤツデや南天が植えられているような昔ながらの瓦屋根の銭湯で、人間と言うより「亀」っている爺さんたちが、意固地なのか、我慢強いのか、鈍感になっているのか、えらく熱い方の湯船に長時間入っているのを見るのも面白かった。
「てやんでえ、こちとら江戸っ子でい」
(無理しちゃってさ。後で心臓発作起こすぞ。救急車出動を余計に増やすなよ)。
 湿った空気の中で黄色いプラスチック桶の響く音。狭い内風呂しか知らない子どもが、はしゃいで走って滑って転んでしまい、うわーん、と泣く声。耳が遠くてその孫の泣き声が聞こえないまま、競馬新聞にちびた赤鉛筆で印をつけている爺様。今上がってきたばかりのどこかのとっつぁんが、股を大きく広げ腰を低くして、きつく絞ったタオルを広げて「パーン、パーン」と威勢のいい音を立てて水気を重点的に取る姿。肌に馴染みすぎた猿股は薄口醤油にザラメを加えて煮染めたような色をしている。
 脱衣所の壁には、すでに大昔に販売の終わった古い商品の宣伝用ホウロウ看板があったり、水槽には、もはや方向転換できないほど丸々と育った自滅的山椒魚化した鯉が2匹、トランプのようにそれぞれの顔を反対方向に向けて詰まっていたりしていた。最後は内側からガラスに貼り付いて四角い着色ところてんのようになるだろう。昭和どころか、一部は大正の雰囲気すら残している銭湯もあった。
 番台には、髪が椿油で艶々していて、講談師のような渋い声で馴染み客とお喋りを続ける「ばばあ」がいたりする。そこに現れたる好男子、パーン、パーン。いいねえ、これでこそお江戸だ。風呂番の後ろの壁の天井に近い位置には、近くの時計眼鏡屋から寄贈された振り子時計が5分ぐらい進んだ時刻を指している。ガラスの内側の金文字は少し褪せて読みにくくなっている。客はすっかり汗が引いても立ち話を続けて、新しく入ってきた他の客たちの邪魔になっている。
「旦那さんはあの後、機嫌直したの?」
「あら奥さん、もう、あんな人のことはいいのよ。いつもあんな調子だから。血圧の薬飲んでるけど、あとは別に問題ないみたい。出不精でね、全然動かないんで、小学生の時のあだ名が臼だったっていうんだから。父さん、そういうことは先に言ってね。お見合いの時に落ち着いている人みたいだわって思ったんだけど、落ち着きすぎていて床の間の畳に根を生やしているみたいなのよ。私が父さん少しは散歩でも行ったら、私も付き合うわよ、一回でいいから私も父さんと手をつないで函館のあの坂道をスキップして歩いてみたいわって言っても、聞こえないふりしてるのよお。ずるいわねえ。日がな一日、棺桶みたいな箱ベッドにすっぽり嵌まったまま、外に出してるのは視線だけなのよ。猫の方がまだましだわ。気まぐれでも少しは動くでしょ。
 あのね、奥さんね、どうでもいいことだけど、一昨日なんだけど、あそこのタワマン41階に住んでるっていう旦那さんが外資系の高給取りの奥方いるでしょう。そうよ、毛だるまさんよ。いつも自慢話なのよ。先日宅とマッハ10のプライベートジェットでプーケットまで行って、台湾で食事を取ってから江戸城下に帰ってきましたのよ、ほんのおみやげですわ、おほほのほって小さな箱をくれたんで、何かしらって開けてみたら、鼎泰豐の爪楊枝が5本だけ出てきたわ。店の名前の左右に雲が描かれている薄い紙袋に入っている楊枝よ。盗んできたのよ、店の財産、あのひと。周りの人から見られてないと勘違いしてお下劣な真似してると、顔つきまで品がなくなって行くわ。お金持ちってケチなのね。でもほんとにお金持ちならうちみたいな銭湯に来るかしら。銭湯代も1円玉と5円玉まで入っているのよ。そのうち、昔の10銭なんかも混ぜて持って来るようになるんじゃないかしら。これが本当の、銭(せん)湯よね、なんて言いながらね。
 あら、そんなことよりね、奥さんにだけは聞いてもらいたいことがあるのよ。うちの附属中に行ってる孫娘が東大を受けるって言い出したのよ。よせばいいのに生徒会の副会長やってる子よ。きりっとした顔で、頭がいいから会議やなんかの取り仕切りが上手なのよ。きっと受かるわ現役で。あのあんぽんたんの母親の方じゃなくて、この私に似て優秀なのよ。進化の不可思議よ、隔世遺伝って歌もあるでしょ。あれなのよ」
(「あら、落ちればいいのに」)。
 さらに、スーパー銭湯はもう天国と言って良かった。でも、これからしばらくは、危なくてどこにも行けないわ、あたし、ぐすん。扇風機が回ってきてタオルがひらり、秘密が露見。
 セシリアの父親は私に対して大きな失点を喫してしまっていたため、羞恥心から、その後自分からは接触してこなかった。電話の糸を切ったのである。とは言え、素面に戻った日常生活では、ちゃんと弁護士等の仕事の方は颯爽とこなしていたのであろうし、セシリアの動向もしっかり把握していたはずだ。
「オレの孫たちの父親になるのはどいつだ? あの北海道のドイツ語野郎か?」

第47章 ファッションショーへの誘い https://note.com/kayatan555/n/ndfc673539ab7 に続く。(全175章まであります)。

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