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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第45回 第38章 東京大学に行ってみる

 ボクらは少し強くなってきた風を避けてキャビンの方に降りていった。鹿部タラコを使った明太子入りの焼きおにぎりを食べながら、テーブルに首都圏の大きな地図を広げて次のデートの場所を検討した。まるで、旅行会社のツアー設計業務みたいであった。
 その結果、日本国の権威と権力を濃厚に漂わせた東京大学に潜入することにした。本郷、谷根千は、どこもかしこも外国人が多い。お陰で不知道(プーチータオ)という中国語も覚えた。「知りません、分かりません」という意味だ。だが、下手に正確な発音でこの台詞を発すると、中国人と思われてしまって、さらに早口で別の質問をされてしまうことになるので要注意である。困りそうになったら、日本人訛りのまま「没有」(メイヨー。「ない」)と冷たく言い放っておくといい。
 狭い裏道を東に抜けると、南北の道の向こう側に朱で彩られた門が建っていた。私はそれまで一度も実物を見たことはなかったので、長年、赤門イコール正門だとばかり勘違いしていた。赤面の至りの無知である。この構内を闊歩している学生ないし講義室や研究室に滅多に顔を出さない人間の中から、35年後の日本国首相が生まれるのであろう。あちこちで自分たちの写真を撮った。だってカメラ部ですもん、あたしたち。それにしても中は狭い。でっかい道(Nonchalantly Spacious Hokkaido)に慣れた目で見れば、ガリバーがつま先立ちして箱庭の中を歩いているような錯覚に陥る。
「ミーは肩身が狭いざんす」
 戦前の政府はなぜ現在地の周辺をふんだんに接収してキャンパスを十分に広くしておかなかったのだろうか。少なくとも今の5倍の面積は必要であろう。構内を歩いてみて受けた印象は、大学キャンパスというよりバチカン市国のようだ、ということであった。あの高い円柱に囲まれた広い円形広場に相当するのが三四郎池の一帯で、サン・ピエトロ寺院に対応するのが安田講堂であるが、ピエタに似たオブジェは見当たらなかった。まさか、それぞれの学生が、あのようにくたっとなった姿勢で講義室にひしめいている訳ではないだろう。ミケランジェロは天才であった。1499年に完成させられたあの大理石の奇跡の彫像を見るだけで、イタリア、そしてバチカンに行く価値は十分にある。あとは、倒れる前にピサの斜塔もper favore. ぜし。
 さらにその2週間後はお台場のテレビ局に行った。幕末に江戸湾前面に大急ぎで建設された砲台群は、箱館の弁天台砲台とも関係があった。
(デートばっかりしていて、お勉強はどうしていたんですか。外語大生なら外交官並みの特訓を自らに課して行かなければなりませんね)。
 海辺に面していて、空が高く開放的な一角である。この付近に立っていると、マンハッタンの南端にいるような感じも受ける。ハドソン川では河口近くでも大物が釣れる。日本から泳いできて大成した鯛焼き君とか。40年以上も経ったので、今やハリバットのような大きさに達しているのではないだろうか。開高健に見せたかったものである。
 道路の向かいには夾竹桃と思しき植物が植えられていた。5月初旬に恐らく国内の北限として椿の咲く函館ではどうか知らないが、札幌では露地で見かけることのない花である。冬の低温(と大晦日の借金返済期限)を越せないからである。パリのポンピドーセンターをも思わせる形で外付けエスカレーターがあって、上に上がって行った。札幌の大倉山ジャンプ競技場で、下の駐車場から道路を渡った向かいにある斜面に沿って上に向かうエスカレーターがガラスのチューブ型で、これらと似ている。途中から北東方面の眼下に市街地が見えてくるのである。
 見学者コースを回っていると、公開番組の撮影をやっている裏側が隙間から見えた。休憩時間になったのか、司会者が愛想良くあちこちに笑顔でお辞儀をしながら横に逸れていって、その後に女優が続いた。見覚えのある顔ではあったが、名前が出てこなかった。あまりじっと見ていると、「監察官」ないし「審問官」が横からうるさい目で見る。
“Joe?” 
(じょー)。
 鼻にテープを貼っているタレントの名前も思い出せなかった。その大きな鼻の穴を見たからでもないだろうが、セシリアは、「あのまあるい部屋に行くわよ」と言った。ビルの中に組み込まれた球形の構造物があるため、遠くからでもこの建物は目立つ。
 この日の帰りは広い水辺を離れて恵比寿の外人バーに行ってみたが、英語より中国語の方が優勢だったので、早々に退散した(店内でアメリカ兵たちの歌う「星条旗」The Star-Spangled Bannerに対抗して、華人たちが「東方紅」を斉唱し始めたわけではない)。
 セシリアと会ってあっちこっち行くのは毎回楽しかった。渋かったのは文士の墓巡りであった。さすれば、小生も和服に手を通し、懐手にて、しっぽりと女性(にょしょう)を伴いて雪駄履きで帝都をくまなく彷徨ってみんとす。
「ヒゲ生やしたら似合うと思う、オレ?」
「ヒゲなんかのことより、部屋にカビ生やさないようにしなさい」
 ふたりのどちらが言い出してあんな場所に行ったのか分からない。
「あら、あなたに決まってるじゃない。わたしは付き合ってあげたのよ」
(あれえ、そうだったっけ?)
 明治時代のある文豪の質素な墓石の近くでは、供物を狙うカラスの急降下攻撃に、辺り一帯のボス猫が立ち上がって真剣白刃取りの姿勢で応戦していた(黒白三毛合戦)。その回はともかく、行き場所に事欠かないのが東京の特徴であった。北海道の高校時代のカノジョに木綿のハンカチを渡して自由になってきて良かった。(「受け取ってなんかいないわ。私の掌に移動してきただけよ」)。私はこの東京そして広い首都圏で、都会の絵の具に染まるどころか、ある時点からは言わばボディーペインティング漬けになるような日々を送るようになっていったのであった。その後も、思い付くままあちこちにボクらは出かけていった。だってふたりとも若かったんだもん。そしてあの日がやってきた。
(何期待してんのよ、あんた?)

第39章 朝からクルーザーへ招集(前半) https://note.com/kayatan555/n/n014e6c9b5eb8 に続く。(全175章まであります)。

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