『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第126回 第96章 ドイツ留学の祖父の時計
長く取れないロシア語のお時間のお供はイチゴジャムを入れた熱い紅茶とブラックチョコレートだ。ついつい食べ過ぎる。しーあったー。歯も磨かなければならない。面倒じゃ。深夜なので、幽霊どもが廊下で車座になって宴会をしているかも知れないし。
そして、横には祖父の形見のスイス製懐中時計と紙のメモを置き、読み始める時刻と読了目標時刻をボールペンで書いておく。存命の方の住職の祖父は母の父である。こちらの方ではなく、私の父の父の方だ。すると、自分で設定しておきながら、その時刻より数秒でも早く読み終えようという気になる。不思議な心理の作用である。こうした速読と精読を交互に繰り返して執拗に努力を続けていくと、自分でスランプと思っている時ほど、実は実力が向上しているのだ。
この機械式精密時計は今も現役で正確に動いている。文字盤の曜日はドイツ語で刻まれており、しかも亀の子文字であるため読みにくい。水曜日はMittwoch(ミットヴォッホ)、つまり週の真ん中という意味である。あえて和訳すれば「週央日」となろう。古い代物なので、動かなくなったらどこに修理に出せばいいのか分からないのだが、その必要はまだ一度もない。
「私故障しないんで」
祖父は横浜からではなく、自宅から近い神戸から上海、サイゴン、コロンボ、スエズ経由でヨーロッパに向かった。イタリア北部のジェノヴァで船を下りてスイス経由でドイツ入りした。滞在中だけでなく、往路、復路とも、寄港地から絵ハガキや封書を実家に送ってきていた。封筒に捺されているSiegelstempel(ズィーゲルシュテムペル=封緘用鑞印)が美しい。年号は一貫として西暦で統一されている。滞独中に知り合った中国人医師たちの何人かは、民國何年という書き方をしていた。すっかりセピア色になった写真、ドイツ製の太い万年筆で認めた日誌とともに、ドイツ製やスイス製の色鉛筆で描いた挿絵入りの滞独・滞欧記録がうちの家宝として残されている。
これらの日誌は大部分が日本語だが、一部はドイツ語で記載されている。わずかだが、フランス語、イタリア語、ラテン語の短文もある。知り合いのドイツ人に見てもらったところ、祖父の独逸語文は接続法の部分まで全部完璧だった。すごいね、じっちゃん。Warst du ein echter Deutscher? ボクは旧字体は自分では綴れないが、見たらかなり分かる。これは、この祖父の遺した文を、子どものころ図鑑を眺めるように見ていたからである。例えば、「旧」という漢字には、昔は画数の多い別の形があったのだ。祖父の漢詩まであるが、どの程度の出来映えかは私としては判断できない。
祖父はドイツ語でPhotoapparat(フォートアパラート)という「写真機」の主要なメーカーの製品を生前好んで使用し、この会社のモデルを複数所有しているだけで大きな満足感を得ていた。留学していたドイツ国内だけでなく、スイス、オランダ、ベルギー、フランス、チェコのズデーテン地方、イタリア北部といった小旅行先での写真も多く撮影して遺してくれた。「自分の初歩のはずのイタリア語が連日面白いほどよく通じていて頗る愉快である」などという滞欧日記の記述が散見される。ヒトラーの山荘があったBerchtesgadenを訪れた際の風景写真まで含まれている。写っている祖父の顔は若く精悍である。アジア人だというので突撃隊に嫌がらせは受けないで済んだのだろうか。
だけど、爺ちゃん、迷惑だよ。オレ、小さなころから爺ちゃんのKameraをいつも見ていたせいで、大学でふらふらとカメラ部なんかに迷い込んでしまったよ。あのクラブに入ったせいで、せっかくの学生生活変になっちゃったよ。入るならどこか別のクラブの方がきっと良かっただろうって思うんだ。
第97章 外語大入学直後の回想(前半)https://note.com/kayatan555/n/n3261f448fd95に続く。(全175章まであります)。
This is copyrighted material. Copyright (C) 2018-2025 by 茅部鍛沈 Kayabe Tanchin « Kayatán », 新 壽春 Atarashi Toshiharu. Sapporo, Hokkaido, Japan. 石狩湾硯海岸へ接近中は、新 壽春の登録商標です。All rights reserved. Tous droits réservés.