(全文無料)9割は別の生き物
マガジン「積立草稿」・シリーズ「つぎの低い孤高」(0)
アリやハチは女王頂点のヒエラルキーを持った大きな家族が社会になっている。彼女らのことを「社会性昆虫」と呼ぶのでややこしいけど、人間の社会とは根本的に違うシステムだ。犬やキリンも家族を中心とした群れで行動する。サルは色々いるけど大体、1つの群れの中に複数の大人の雌雄がいる。
…で、人間は脳が発達しすぎていて他の動物とぜんぜん違うなって感じがする。僕は、人間の社会やグループに関して考える時、他の動物と軽率に比較しないほうがいいと思うようになった。「動物」というカテゴリに限界がある。
むしろ人間は、他の動物よりも本とかコンピューターに近いと思うことがある。つまり、見た目や仕組みが同種でも、内容や意味がそれぞれ全く異なる集団だということだ。
たとえば本はどれも大体、水分や直射日光を避けて、古いものは虫に食われないように干したり、読むときは線を引いたりブックマークを使ったり、物理的な部分が共通している。どの本も似たような原料から似たような印刷施設で生まれ、似たような棚に入ったりして、似たような再生施設や焼却施設で死ぬ。それらはほぼ共通しているのに、どんな書き手や書店や読み手と関わって、どんな内容をどんな方向に担うかというのは、本ごとに全く異なる。ある職業の人、ある考え方の人、ある人生経験を経た人、そういう特定の人たちを中心に読まれる本は、他の本と全然違う時間の過ごし方をする。
「古い占術トップ7000」という本が生まれてから死ぬまでに出会う人間たちの種類は、同じ本であるドストエフスキー「罪と罰」よりも、カードや水晶玉と似ている。僕は、人間にもそういう印象を持っている。
僕は普段、9割の他人は別の生物種のように遠く離れた存在だと思っている。本のように人間も原料や保管方法が共通しているので、その部分で協力して生きていくのが社会だと思っている。たとえば街の安全や衛生について、ある程度まではみんな共通認識がある。それでも、ある程度だ。
自動車からガムを道に吐く人もいれば、犬を散歩しながらそれを拾っていく人もいる。飢えなければいいという人もいれば、遺伝子組み換え食品は嫌だという人もいる。生活の基礎部分の仕組みは共通しているけど、その基礎部分ですら考えによってそれぞれ違いうるのが人間だ。
ささいなことにも固有の向き合い方を持つ人間たちは、それを周りに合わせながら生きていくこともできるが、より「勝手にやっていく」方向でもいいんじゃないかと思う。僕は人間の中でも神経質で、違うものに合わせたりすると疲れやすいほうだ。だからあまり付き合わずに、他人は全然違う生き物だと思って、あまりお互い干渉しないで済むように生きたいと思っている。
それでも、完全に自分の価値観に閉じこもっていたら、よっぽど特殊な人じゃないと生きていけない。好き放題書いた小説が売れて、もう一生働かなくていいとか。そういう状態じゃなくて、もっと柔軟に社会と関わって、だけどあくまで本拠地はそこから離れた孤立をキープできるような、「町に出やすい町外れ」に持っておくのが良いなと僕は思っている。
もちろんそれは現実の町外れじゃなくて、精神的な、だ。他者との交流も持てるような場所に建った、自分の美意識や価値観で作られた建物。そこを本拠地にするちょうどいい孤立状態を、「すこし低い孤高」と名付けた。
たとえば毎日会社に通ってそれなりに働いていても、就業時間以外は仕事のメールやチャットの通知はオフにする。宴会類には参加しない。家族や友達関係でも、顔や服装については口出ししたりされたりしない。そういう、自分の守りたい領域はそれぞれ色々あるだろう。生き方や考え方に応じて拡張していき、納得いくように色んなものと距離をとったり、現実的に可能な形を探ったりして、自分の「すこし低い孤高」を作ることについての文章がこのシリーズです。