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【被写体との関係性】

「被写体との関係性」

「子供と老人と外国人は撮ってはいけない」
と言う決まりがあった。
“っぽく写りやすい”
というのがその理由。

学生時代の話で、当時でもその言っている意味は理解できた。

デジタルカメラがどんどん使いやすくなるにつれ
“っぽく写す”
事がとても簡単になってきた。

僕は一度
“向き合う事”
から逃げた事がある。
二十歳、ある出版社のグラビア雑誌の編集部の末席にいて、ポジ切り小僧だのと言われていた頃、当時の編集長がちょっと気になる新人がいれば使いどころが決まっていなくても自腹をきってまで撮影を組んでいた。彼はとてつもない女好きだったんだけど、その度合いがちょっと常軌を逸していた。
常軌を逸していたけど、彼が本当に見たいものがなんなのかは、当時から分かる気はしていた。
そんな彼が、家族で”マティス展”を見に行った後、僕に力説した事があった。
「本物を目の前にして“そうだよ。この赤なんだよ”と言う僕をしりめに奥さんがカレンダーを買ってどこに飾ろうかしらって言ってるんだよ…本物の赤には及びもつかないけど、そう言うの、嬉しいよねぇ」

“本物”にしか伝えることの出来ない何かと、“コピー”でも伝える事の出来る何かを、比較する事は出来ない。
本物のマティスの作品が伝えるものと、マティス作品のコピーが伝えるものは全く違うはずなのに、そのどちらも、彼の残した作品を通して、全く次元の異なる何かを伝えることが出来る。
カレンダーは本物ではないが偽物ではない、本物から増殖したものだからだ。

本物とコピーと彼と奥さん。

本物に込められた想いが、マティスの思いもよらない方向に増殖していく様は、まるでフラクタルのマンデルブロ集合とも言える。無限の集合体でありながら相似的で異なる。つまり同じではない。

僕は彼の根底にある情熱を事あるごとに見せつけられ、そこから逃げた。
彼のように「人を愛する事」は出来ないと思った。
本物にぶつかっていく自信を喪失したと言い換えられるかもしれない。

「っぽいもの」
で終わらないためには、正面からでも、斜めからでも、後ろからでもぶつかっていかなければならない。
見えてくるものは、“本質”的な何かでありたい。
そしてそれは多分真理などではないから、その時、その場、その人によって少しずつ見え方は変わってくるだろう。

「何にぶつかっていくのか」
それが一番の命題ではあるのだけど…
(´・ω・`)

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