独白 - 朽ちた鳥籠
物心ついたときにはここにいた。
…だから、飯を食うために仕事を覚えた。
それだけだ。なにかポリシーや矜持があったわけじゃない。
母親のことは覚えていない。
周りと自分の見た目は随分違うので、どこか異国から流れてきた女だったのだろう。ここで俺を産み落とすと、またどこかへ流れていったらしい。
年嵩の訳知りが、聞いてもいないのによく話して聞かせてきたものだ。…そいつも半年ほど前の仕事で下手を踏んで、あの世へ行っちまったが。
それで、父親が誰なのかはなんとなく知れた。自分がここにいる理由も。
…別に両親についてはなんとも思っていない。何かをしてもらう義理も、返す恩もない。
だから、お偉方の騎士様の代わりに泥を被るこんな仕事にしがみつく理由もない。適当なところで足抜けして、どこか遠くで気侭にやっていくつもりだった。
……アイツに会うまでは。
一
その日もいつものように、命令が下った。
こっちに拒否権はない。この仕事に俺が指名されたのは…、おおかた当家の連中が下世話な心配から、余計な気を回したんだろう。
仕事の内容は、護衛。護衛対象は当家の一人娘…そう、半分だけ血が繋がった“姉”だった。
…噂には聞いていた。随分と器量はいいらしいが、男勝りで騎士の真似事までしている、と。せっかく別嬪に生まれたんなら、婿でももらって大人しく奥方にでも収まっていれば楽だろうに…と思うが、そんなのは向こうからすれば大きなお世話だろう。
それが、あろうことか戦地でひとり逸れちまったらしい。窮地に陥った本隊を逃がすために、単身囮になったのだと。…勇敢なことだ。
幸いだいたいの潜伏先は、敵方より先に突き止めることが出来た。しかし、下手に兵を動かせば大事なお姫様の居所が筒抜け――そこで、隠密行動が得意な便利な飼い犬の出番、という訳だ。
大事なお姫様の救出に差し向けるのが、飼い犬一匹…、どうかしてると思うし、実際アイツらの頭はどうかしてた。
お姫様が五体満足、ご無事であれば、この仕事は名目通り“救出護衛”だ。でも、もしものことがあれば…、始末して“名誉の戦死”をでっち上げる。それが、本当の命令だった。
一人娘なんていうが、“正妻”の冠言葉が付いてるだけで、俺みたいな代わりはいくらでもいるんだろう。顔も知らない女だが、さすがにその娘には少し同情する。
二
夜陰は慣れ親しんだ仕事場だ。昼間より余程歩きやすい。
娘の潜伏場所はすぐに見つかった。彼女が逃げ込んだ洞の入口に死体が転がっていたからだ。…もう少し到着が遅れれば、むこうさんの手に落ちていたのだろう。俺が着いたときには、哀れなお姫様は洞の中で敵に囲まれ四面楚歌。決死の一撃を繰り出そうとしている最中だった。
獲物に気を取られた狩人を、後ろから仕留めるのはいとも容易い。ひとり仕留めたところで、残りの狩人どもは慌てふためき、その得物を振り下ろす相手を探したが…時すでに遅し。もはや獲物は奴らの方だ。取り囲んだはずの獲物に挟撃されるかたちになった動揺で、振るわれた凶刃は同士討ちを誘い…混乱のうちに戦闘は呆気なく終わった。
邪魔者を片付けたところで、改めて女の状態を確認する――透けるような白い肌に、しっかりと編み上げられた長い白金の髪。睫毛でびっしりと縁取られた瞳は翡翠色…事前に教えられた特徴と一致する。可憐な見た目とは裏腹に上背は俺よりもあるようで、体格のいい身体はしっかりと鎧に包まれ、四肢の欠損などもない。…無事と言って差し支えなさそうだ。後味の悪い仕事は避けられたらしい。
俺の不躾な視線を浴びて、女は気分を害したようだ。こちらを睨み返し、何者か、と問う。こんな状況なのに、気位だけは高い女だ。―やはり本人を目の前にしても、姉弟だなんて感慨など感じ得るはずもない。血が繋がっていようが、ただの“他人”だ。
手短に要件を伝え(もちろん都合の悪いところは端折っておいた)、名を名乗る。一瞬、相手が戸惑ったように見える。…コイツも俺が自分の“何”なのかを知っているのだろうか。そこまでの機敏を読み取ることはできない。
一拍置いて、女は救援に対しての謝辞を述べ、改めて名を名乗った。
―「サイ」――知っている。その名前だけは、よく。
大した外傷はないものの、泥と返り血に塗れた見てくれは酷いもので。…それでもサイは、凛とした佇まいを崩そうとはしない。
ただ、気丈な態度とは裏腹に、その言葉尻と指先は微かに震えていた。
なんだか壊れそうな女――そんな風に思った。
三
サイに用意しておいた着替えに着替えるよう指示し、手早く死体と戦闘の痕跡を隠す。
近くに水場があったので、手ぬぐいを濡らしてきて着替え中のサイに放ってやると、戸惑ったような声で礼が返った。
そこまで時間をかけず、サイは着替えを終えて出てきた。ここからはいかに敵に見付からずに領内に戻るか、が肝要になる。残念だろうが目立つ鎧や余計な荷は邪魔にしかならない。捨て置くよう指示する。
サイは、少し名残惜しそうにしたが…これだけは、と荷物の中から年季の入ったロザリオを取り出した。俺は神様なんぞ信じちゃいないが、当家は敬虔な信徒なんだっけか。コイツもそうなんだろう。荷物になりそうなものでもないので、特に口は挟まなかった。
小汚いボロを着せられても、慣れない悪路を強行させられても、サイは文句を漏らさなかった。…というか、酷く無口な女だ。騎士の真似事をしているだけあって、身体も相当鍛えているのだろう…閉口するような酷い道でも足取りは常にしっかりしていて、一度追手に捕まり戦闘になった際の立ち回りも、鮮やかなものだった。
大立ち回りを演じたせいでボロ着のフードがずり落ちていた。整った相貌が顕になり、金糸の髪が零れ落ちる。―あまりに、目立ち過ぎだ。落ちたフードを引っ掴んで乱雑にそれに被せる。サイはなぜかひどく動揺して、身じろぐ様子を見せた。
その後の行程は、道が悪いことを除けば順調なものだった。さすがに黙りこくっているのも息が詰まるので、ぽつりぽつりと言葉を交わす。サイは話すのは不得手らしい、あまり会話は続かない…が、その素朴な態度は嫌いではなかった。少ない言葉からはクソ真面目で世間擦れしてない初さが覗いた。
…そろそろ屋敷だ。ようやく愛しの我が家に辿り着くというのに、ここに来てサイの足取りが鈍くなる。…完全に、足が止まった。
訝しんでいると、サイが重い口を開く。…初陣だったのだ、と言った。コイツ、初陣であんな大立ち回りをしたのか?死にたがりの大馬鹿なのか。そのまま思った事が口から出る。サイは一瞬目を見開き、なぜかふっと、悲しそうに微笑んだ。
…たくさん人が死んだ、と。何も守れなかった、と、ぽつぽつ話す。…ああ、コイツは至極真っ当で純粋なのだ。おとぎ話に出てくるような、正義の騎士が真実だと疑わない。…でも、実際の戦場は殺意と悪意で満ちている。繰り広げられるのは、意地汚い生存本能と奸計の食い潰し合いだ。
再び、重い足取りで歩き出す。…そして、今からコイツが帰る“家”もまた、見栄や建前で立派な家名を取り繕う、醜いハリボテの城だ。真面目くさった顔でそこに列挙される騎士たちよりも、この幼稚なお姫様の方がよほどマトモな“騎士”らしい…、それでも、コイツはきっと騎士にはなれない。“女”だから。
…本当に下らない。よくあんな腐った家で、ここまで真っ直ぐに育ったものだ。ボロは纏っていても、凛とした気高さまでは覆い隠せないその女を見遣る。
こちらの存在に気付いたらしく、屋敷から迎えの者が現れた。それに気付いたサイは、ピンと背筋を伸ばし、力強い足取りでそちらに向かう。
半ばで立ち止まり、こちらを振り向く。フードに隠れてその表情はよく見えない。
コイツはあの家でこれからも、真っ直ぐに歩いていけるのだろうか。それこそ余計な世話だろうが、彼女のこれからの道程には憐憫を覚えた。
サイはフードを取ると、深々と礼をした。上げた端正な顔がこちらをじっと見つめる。その表情が少し切なそうに見えるのは…きっと俺の願望なのだろう。
とても綺麗で、強くて…壊れそうな女だった。
そんな風に思うのは、俺の血のせいだろうか。そうだというのなら、当家の下世話な配慮も多少は効果があったのだろう。
俺は家族の情なんて知らない。
だから、それがそうであるのか判断はつかない。
柄にもなく、少し感傷的な気分になる。
でも、きっともう関わり合うことはないのだろう。
四
…きっともう関わり合うことはないのだろう。
そう思っていた。
しかし、アイツはひと目を忍ぶようにして、時折俺の前に現れるようになった。子飼いの犬の居所なんて、アイツなら少し調べれば簡単に突き止められただろう。
一体俺の何がお気に召したというのか。自慢じゃないが、忠誠心も礼儀も欠片も持ち合わせちゃいない。お姫様のお眼鏡に叶う要素など、とんと思い付かなかったが…それでも拒む気にもならなかったのは、つまるところ。―俺もサイに対して好意を抱いていたのだろう。我ながら、ひどく単純だと思う。
別に会ったからといって、何があるわけでもない。ぽつりぽつりと近況なんかを報告しあって、別れる。それだけだ。
サイはいつも淡々としていたが、落ち込んでいる様子が見て取れることも度々あった。絵に書いたようなクソ真面目だ。あんな家では生きづらいことの方が多いだろう。
俺の方はいつも通りだ。いつものようにクソみたいな仕事をして、飯を食って寝る。その繰り返し。サイは危ないことはないか、としきりに気にしていたが…そもそも危ない仕事しかこっちには回ってこない。ただ、いたずらに心配の種を増やすのは本意ではないので、曖昧に誤魔化しておいた。
サイは、誇り高い人間であろうとして…ピンと張り詰めた緊張感をいつでも纏っていた。少し力を込めれば、ぷつん、と切れてしまいそうな。
そんな壊れ物のような綺麗な生き物を、そっと眺めることには密やかな愉悦を感じた。
この身に流れる半分の血が、同類として彼女を庇護しようとしているのか。…それとも。
そんなことは分からないし、どっちだって良かった。
一度、こんな仕事放っぽり出して、どこか遠くに行くつもりだ、と漏らしたことがある。サイは少し悲しそうな顔をして、遠くを見遣り…、心底羨ましそうに、いいな、と漏らした。
嘘つけ。大事な家も、大切な信仰も…、騎士になる夢も捨てられないくせに。
そんな、真っ直ぐなサイが好きだった。
とても綺麗で、馬鹿正直で…だからこそ残酷だ。そんなサイの存在に縛り付けられて、俺の足はここから離れることができずにいる。
今思えば、あの日々は幸せだったのかもしれない。歪な鳥籠の中で不毛な逢瀬を重ねて、時間を腐らせる…そのまま朽ちていけるのなら、あるいは。
ただ、それを許すほど周りは優しくはなかった。
程なくして持ち上がった、サイの縁談話。…当然だろう。騎士にはなれない女でも、縁談という外交に於いては極上の手札だ。小汚い飼い犬に噛み跡など付けられようものなら、その価値はガタ落ち…、あの時俺を使いにやった奴らは、今頃歯噛みしていたことだろう。
――何にせよ、これでもう終わりだ。
本人にとっては不本意だろうが、いいところに嫁げばきっと、子を持って平穏に生きる人生だってある。
それは、先行きのない野良犬に執着するより、よほど幸せな人生はずだ。
そうすれば、俺だってここを出てどこにだって行ける――
そう、思おうとした。 ――そんな日の真夜中だった。
外は酷い嵐で、それはぐしゃぐしゃの濡れ鼠のようで。
俺の狭い寝所に駆け込んできたのは、紛れもないサイだった。
五
ずぶ濡れになったサイに、身体を拭く布と着替えを渡す。いつかみたいだな、と軽口を叩いてみたが、サイは思い詰めた表情で黙りこくっている。
着替えに差し支えるだろうと背を向けた。部屋でも移動できればいいのだろうが、生憎狭い寝床しかない場所だ。…しかし、いつまで経っても衣擦れの音は聞こえない。ちらりとサイの様子を見るが、着替えと布を握りしめたまま、呆然としている。…ちっ、このままでは埒が明かない。身体が冷えてしまう。
サイの手から布を引ったくると、乱雑に髪を拭う。サイは背が高いので見上げる形になる。
サイは俺の目を覗き込むようにして、ちいさな…とても小さな声で呟いた。
…聞いて、いないの?
聞いているさ。…でも、だからって俺はどうしてやればいい?俺とお前は“なんでもない”。
――そう、“恋人”でも、ましてや“姉弟”なんかでも。
ぽつ、ぽつと顔に雫が落ちる。
それは、サイの髪から溢れる雫だけではなかった。
泣くな、泣くなよ。
ひとりで死ぬかどうかの瀬戸際でも、涙ひとつ溢さなかったくせに。
こんな、なんでもないことの為に。
いたたまれなくなって掌で乱暴にその涙を拭う。それでもそれは溢れて止まらない。
豪雨と風にさらされた肌は、透けるように蒼白く、冷たい。…冷たい、玻璃のような。―こわれそうな、サイ。
声も無く泣いていたサイは、ついには肩を震わせてしゃくり上げ始めた。まるで、こどもみたいに。
…本当は、ずっと思っていた。コイツを拐ってどこか遠いところへ行けたなら。誰の目にも触れないように閉じ込めて、独り占めにしてしまえたら。
でも、それは。
コイツにすべてを手放させるということだ。
俺にとってはクソみたいな家でも、サイにとっては生まれ育った家だ。家族の情も、騎士の名誉も、敬虔な信仰心も… コイツにとってみれば大切なもので、きっと人としては尊ぶべき美徳なのだ。
俺はそのどれもを知らない。分からない。――何も持っていない。
ああ、俺は怖かったんだ。からっぽの自分が見透かされることが。
サイが、自分より、その手の中にある大事な物を選び取ることが。
…俺にはサイしかいなかったから。
もう、手放さなくてはいけない。
彼女の幸せを願うなら。
サイが俺に執着するというのなら、それはサイまで食い尽くして、からっぽにしてしまう。
結婚すれば、騎士にはなれなくても家族は得られる。子の親になる幸せだってあるじゃないか。
――嫌だ。
もし、俺と一緒になるというのなら、お前は家族を裏切ることになる。
――そんなの、どうだっていい。
神様にだって、見放される。
――こんなこと言いたくない。
だって、俺とお前は―
言いかけた言葉は、続けられなかった。
サイがその唇で俺の口を噤んだからだ。
息と息が触れ合う距離で、サイの唇が動く。涙で掠れた声が囁く。
―それだけは、言わないで。あなたの口から聞きたくない、と。
…駄目だ。それを言ってしまったら――
―あなたを、愛しているの。
サイのその言葉は、それまで耐えていた俺の“何か”を、容易く焼き切った。
粗末な寝台の上で詳らかになった、サイのからだは場違いに美しかった。
長い金糸の髪は寝台を波のように彩り、艶やかに揺蕩う。
その上の蒼白い肌は、冷たく滑らかで…でも俺が触れる度、うっすらと熱を帯び、蠱惑的に跳ねて…昏い情欲を満たした。
彼女の家は、気高い騎士であろうとした彼女の心を、努力を…婚姻という名の檻に繋いで、その全てを否定した。
彼女の信じた神様は、彼女の抱いた拙い想いを赦すことはしなかった。
そして、俺は彼女を汚した。禁忌を犯した彼女は、きっと天国に迎え入れられることは無い。
彼女の愛したものたちは、寄って集って彼女を壊して、喰らい尽くしてしまった。
俺には神様なんていない。家族もいない。
サイだけだ。サイだけが、俺の。
それを神だの家族だの、いもしないものに壊させてたまるものか。…そうだ、始めから。こうすればよかったんだ。
俺だけが、サイを壊していい。
サイもからっぽになればいい。
そうすれば。
蹂躙し尽くされて、ぐったりと眠るサイを抱き寄せて口付ける。
全てに見放されたサイ。からっぽのサイ。
…これは俺の。俺だけのものだ。
神にも、天国にもくれてやるものか。
―サイが、次に目を覚ましたら。
今度こそ、誰も知らない遠いところまで連れ去ってしまおう。
俺はその首筋に顔を埋めて、そっと目を閉じた。
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