仰げば尊し・中編
そして迎えた告別式の日。
母は昨日のお通夜から来ていたので、昨日はどうだった?と聞いてみた。
お通夜は大変弔問客が多く、混雑していた。教育者ということもあり、教え子が多かった。ちょっとした同窓会の様だったそう。
私は教育者としての顔を持つ先生の事は全く知らない。
先生について知っている事は、私の母から聞いた事だけ。出身は東北地方の寒村。旧家の生まれで、先生のお父さんは地元では名士と呼ばれる人。学者の家系だったそうです。
そのお父さんが「恭一(先生の名前)、この村では仕事が少ない。お前は教員になりなさい!」と言われて教育者を志したそうです。
先生は中学・高校生のときはバドミントン部に所属。スポーツに打ち込む毎日だった。
進学先は関西の大学で、そこでもバドミントン部に所属。そこで後輩として入部してきたのが先生の奥様(智恵子さん)だった。ちなみに奥様は中部地方出身。
2人はすぐに意気投合、学生結婚をする事となる。その後、教員免許をとった先生は一男一女に恵まれ、教員生活に邁進する。土地を買い、家も建てた。
若い頃の先生は中学の部活の顧問(バドミントン部やソフトボール部)として土日平日関係なく学校に通う毎日。先生のモットーは、何事も気合と根性で乗り越えろ!だったそうです(昭和の熱血体育教師、と先生の息子さんが言っていました)
奥様は大変苦労されたという。(子育てはほぼ1人、ワンオペ)生徒からも大変好かれる先生で、教え子が結婚となると必ず恩師として呼ばれる。
その為、結婚式が続くと寿貧乏。家計のやりくりも大変だったそうです。
順調に先生は出世し、教頭・校長の職を各地の小中学校で歴任。最後は中学の校長先生として教師生活を終える事となった。
先生が亡くなった理由は、完治したと思われた胃がんからの転移、肝臓がんだった。
肝臓がんが見つかった時には既にステージ4、すぐに抗がん剤治療を始めた。
しかし残念ながらあまり事態は好転せず。全身にガン細胞が広がってしまった。
そして、担当医師から余命宣告を受ける。今年(2024年2月)の時点で、8月の誕生日を迎える事は困難です、と言われた。
そこからの先生は凄かった。覚悟が決まった先生は、まだ自分が動けるうちにと、自分自身で葬儀屋さんと連絡をとり自分の葬儀の段取りを組んだ。
普通なら家族が決めるであろう事柄の一切を自分で決める。祭壇の種類、斎場で流す音楽、式の流れ。お返し物の品選び、葬儀で呼んで欲しい人のリフト等。
弔辞を読んで欲しい教え子や先生の親友には直接電話してお願いをした。
相続に関しても、弁護士に相談して家族が揉めないように遺書も作成した。
さらには先生の出身地東北から大田原家の菩提寺の住職まで呼ぶ(勿論、交通費・宿泊費は大田原家が負担)
最後には先生の奥様(智恵子さん)の分まで葬儀代を前払いしたそうです。
担当医師が宣告した余命を越えても先生は最後の命を燃やす様に精力的に活動した。まるで肝臓がんなどなかったかの様に。
全て行える範囲内で自分が亡くなった後の事を決めた先生は、安心したのか急激に衰弱し、今年の9月には大学病院へ入院してしまった。
もう治療法がない状態の先生。少しでも肝臓がんの痛みを和らげる様に終末医療(ターミナルケア)を受ける事になった。
この頃の先生は、病院で亡くなるのは嫌だ、死ぬなら俺の建てた家で死にたい、と家族にもらすようになっていた。
終末医療の担当医からは退院の許可がなかなかおりず、毎日のように全身の痛み、倦怠感、39度を越える発熱が続く。
担当医は、せめて熱が下がらないと退院の許可は出せない、と言った。
先生は最後の力を振り絞るかのように、病状をねじ伏せ奇跡的に体温は平熱へともどった。
担当医は信じられない、という顔をして先生の退院を認めた。ただし、体調が悪化したらすぐ病院に戻る事を条件に。
先生は10月になり、退院する事ができた。
奥様が先生を自宅介護し、体調の確認は医師の往診で対応した。
自宅ではベッドで寝たきりになってした先生。
食事の時以外は殆ど眠っている状態。
体調の良い時は、友人や教え子とスマホを使って話もしていたそうです。
うちの母もそのひとりでした。母も最後の頃は先生と電話で話すのが辛い‥と言っていました。
そして告別式の開始時刻の11時30分となり、
おごそかに式は始まった。
続く。