無人駅と赤蜻蛉
・8時23分。
駅のホーム、無人駅。
友人の結婚式で小倉に行くので
電車を待っている。
田舎の電車は1時間に1本くらい。
次の電車が9時3分なので
これを書いている。
対岸の空と
異様に高い木を眺めながら
赤蜻蛉が無数に飛んでいる。
命だなぁ。
愛とか恋とか悲しみとか
蜻蛉にはあるんでしょうか。
ともかく本日はとてもめでたい日。
心做しか今日は涼しい。
・どんなに感動したことも
結局忘れていく。
あれだけ号泣していたライブも
ここ最近のラジオ配信で
「最近泣いた事」を考えないと
思い出せなかった。
思い出せるって事は
忘れている訳では無いのでしょうが
直ぐに
日常的に想っているわけではないので
これを「忘れた」と言うのでしょうね。
・ちょうどこれを書いている時に
急に右側から猫ちゃんの声が聞こえた。
駅のホームギリギリを
1匹の猫ちゃんが歩いている。
ホームには自分しかいないので
多分こちらを見ている。
めっちゃ見るな。
今これを書いたくらいで目の前に居る。
三毛猫ちゃん。
可愛い。
どこかへ去っていった。
こいつご飯くれないな
と判断されたのでしょう。
・蝉の声が遠くから聞こえる。
見えないけど生きているんでしょうね。
人生のSE。
音は聞こえてるけど
本当に存在しているのだろうか。
・AIで作られた動画を見た。
表現しがたい。
うねうねと移り変わって
情報量の多い動画。
こんなの現実じゃないから
AIが作った動画か
と思った瞬間に
「いや、これが本当は現実の世界で
AIは理解していて作れて
俺らの目と脳は
これをちゃんと認知出来なくて
今の視界と現実になってるんじゃないか」
と思い
AIすげぇと勝手に感動した。
でもレプリカントみたいな事も
有り得るのではないかなと。
我々はこの五感を利用して
映画を見ているように
自身の命を流している
みたいなやつ。
・ぱっと下を見ると
百足の子供が歩いていた。
透き通った薄緑の膜に包まれたみたいな
真っ黒の身体をうねらせて
蟻とぶつかりながら何処かへ去っていった。
生きているんだなぁ
こんな小さくても。
意識はあるんでしょうか。
何考えて歩いてるんだろね。
・最近「神様ですか?」
とよく言われる。
1人しか言わないが。
あと人間ですが。
「神は細部に宿る」とか
「八百万の神」とか
日本の神への寛容さと
身近さは個人的には
とても好き。
高千穂峡に行った時も思った。
昔の人は
これに神を見たのでしょうね。
その人の主観で
そこに神が宿るとしたら
ある意味俺は神様という事なのか
その人にとっては。
神は万能ではなく
人間らしく
善悪の判断も無いので
確かになぁ
と。
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