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日記2023/03/12

もう夏かな
と思うこの頃

チョコレートは嫌いだったけど
大人になってからは食べれるようになった
でもわざわざ買わない
あと気持ちを食べている
だから美味しい。

今日は福岡県の
某和太鼓チームの演奏を見ました。

とりとめのないこの跋文
どうせ一字一句どころか
殆ど読まれていなのだから
好きに書こうと思うのだけど

今日のは特に誰も見なくていいと思う

今この日記は助手席で綴っていて
先輩の運転で帰っている。

先輩は好きなアーティストの
音楽を流しながら
そのアーティストの良さを
語っている

好きなものを語れる
今は死ぬ事についての話を
先輩は語っている。

閑話休題。

子供が頑張っている姿は
微笑ましい。

他のチームの演奏を見に行くことは
基本的に少ない
少なかった、なのかな。

前にも綴ったが
基本的に俺は他人に興味が無い

特定の人物
未だにその基準は自分でもわからないが
そういう人には多分異常に興味を示す。

面白くない人間だとよく言われるが
そもそも他人に面白い
と言われたい欲求が無いせいか
一向に改善はしない

小学生くらいの時は
人を楽しませるのが好きで
面白い奴認定されていたと思う
ボケもギャグもなんでもしていた
多分その頃でその欲求が満たされて
もう今はないんだと思う。

最近に話が弾む人間とは
だいたい何かについて話し合って
自分にない視点を得て
真面目な話で終わる。

俺の事を友人だと言ってくれる
変な人達は
多分にそういう話が好きなんだと思う。

小学生の頃から
未だに話が尽きない変人は
優しいのか

それとも20年以上も
価値観の変化の方向も速さも
自分と近しいまま追従しているのか

そう考えると有難いと思うよ
いつまでもそうである保証はないし
ありがとう。よしなに。

閑話休題。

初めて他人の演奏に
感動した時は覚えている。

自分と自分のチームが
出演するイベントで

強烈な感動
でも感情が動いたことに変わりないが
綺麗なものじゃない。

あんな風に打ちたい。
これが、俺は好き。

綺麗に書くとそれだけど
純粋に強烈な嫉妬だったと思う。

自分よりもだいぶ小さい子が
あんな風に生き生きと生きている。

俺はこんな風に打てない、と。
舞台上からてらてらと放たれる
その子達の音圧とその動きが

「お前はこれになれない」
と押し潰してきているように感じた。

目眩がした。耳の奥が膨らむ感覚。
顔全体が熱を帯びて
眼球が膨らんで破裂しそうな

今でも覚えている。

その曲の間
口は開いたままだったと思う。

無意識にビデオ撮影していて
でも目は舞台に残っていて
ブレブレの映像から始まる動画が残った

後日その映像を何度も見て
残りの時間、過ぎた時間を考えて

「お前は、これを打てない」
と突きつけられて
当時は尊敬と同時に
無限に虚しくなれた。

正直羨ましいと思った
当時の自分は20歳で
既に撥を握ってから14年。

その子達は黄色いネズミの
可愛い格好だったけど
自分の目には怪物に見えた
恐ろしかった。

天地創造、だったかな?
でも好きな事には変わりない。
俺はあれが好き。

歴、とは恐ろしいもので
「和太鼓歴何年ですか?」
という質問が個人的には最も恐ろしい。

今22年目だが
インスタに歴22
と記入するのも相当な困惑があった。

言い訳にはなるが
良くて月2回
1回1時間の練習をしている
和太鼓クラブでやってきて

中学生の時はほぼ行かず
あまつさえ自分の目さえ
まともに育っていない状態で

自主練習なんて概念も自分にないまま
だらだらと15.6年間過ごしたわけだから
歴、はただ経過した時間に過ぎなかった。

けれども他人にとっては
和太鼓歴〇年の人
が印象として残るわけだから

その当時化け物の子を見た自分は
全て焦りと劣等感に変わった

だいぶその後余韻を受けて
自分のチームのスタイル、雰囲気や
自分自身がその衝撃に
寄って行った気がする。

今思えば単純だったなあ。
影響を受けやすいのは昔からか。

その後
個人的な化け物を見た。

そのチームの子で
上手い、のは上手いけど
技術は当然上手い。

ただそれだけでなく
上手で打つ彼女の姿に
遠目から見ても見惚れていたと思う。

正直上手いとか下手とか
自分はよく分かっていない部類に入る
と思うが

彼女の演奏は誰よりも
過去一感動していて
未だに自分の中の理想の演者。

そりゃ当然無限に
「上手いなぁ」とか
「綺麗だなぁ」とか
「細かいなぁ」とか

そう思う人は沢山居る。
むしろ大多数が確実に
自分より上手いと思っている。

お前は耳が良い、とか
よく理解している、とか
俺には作れないものを
俺にはない感性を
お前は持っている、とか
お前は俺を超えるよ、と

お褒めの言葉
自分には余りにも勿体ないお言葉を
今まで頂いていたけど

未だにそれを
自分自身が理解していない。
飲み込めていない、が正しいのか。

俺程度の人間が作れるものは
誰かが作れる
俺程度の人間ができる事は
誰もができる

そう思って生きていた故
人からの褒め言葉は嬉しいと同時に
上手く飲み込めない。

別にネガティブな訳じゃない
卑屈な訳でもない

ただ単に脳の構造上というか
人類史上といいますか。

話は戻るが
動きの問題なのか
体の使い方なのか

とにかく、自分基準なのか
自分の感性の問題なのか

「俺は舞台上でこれになりたい」
と思ってしまっていたと思う

でも真似をしたいわけじゃなかった。

語彙力が無いので
言葉にできないが

別に俺が彼女の真似をしても
彼女のようにはなれない

生き物としてそもそも何もかもが違う
そりゃそうだ、他人だから。

手足の長さも身長も
指の長さも違う。

彼女のような打ち方がしたい
はおおよそ近いが
少し誤差がある

多分に
その動きと、細かな所作と
遠目からでもわかる表情(語彙力の限界1)
その舞台上での人間性(語彙の限界2)
に素直に目が離せなかったと思うが

ああ言う生き物に成りたい
と思ったと同時に

当時1度心が折れるくらい
嫉妬していたと思う。

こんな風に大人数の中でも釘付けにして
こんな風に家に帰っても思い出して感動して
こんな風に自由に打てたら
こんな風に身体を上手く使えたら
こんな風に綺麗な動きが出来たら
こんな風に

こんな風に

と。


そう考えると

単純に演者としては
褒められたいより
強烈に嫉妬される演者
の方が上手く飲み込めるかもしれない。

浅ましい
なんとまあ、浅ましい。

だから音を出しているのか
自分は。

でも、嫉妬も渇望も
立派な「感動」の一種でしょう。

勿論ここに綴ったのは
今日の演奏を見て
当時の気持ちと記憶が掘り起こされた
備忘録なので

今の自分はまた
感じ方も、考え方も
違う所が多少あるのけど

おおよそおなじか。

ん?
年末の呑みで

名古屋から帰った元クラスメイトから
「7年前となんか変わったね。人間的に?根本的には変わってないけど、なんか変わった。良い」
と言われた事は
これかもしれない。

日本酒を2人で
何種か飲み比べながら
それを言われて

好んでくれてありがとう
純粋に嬉しいけど
いったい俺の何を知ってるんだ

って酔ってる脳内では思っていた。
でも同時に改めて
俺って友達居たんだぁ
と有難いと思った。

ちなみにこの店
去年の年末も来て
その時のスキンのお兄ちゃんと
金髪の女の子が今年も居て

「あ!去年の!」って
覚えててくれたのは

素直に尊敬した。
毎日たくさんお客さん来るのに

よく覚えてたな、と。
年末年始だから?

その子はもうすぐ
東京でモデル活動をするらしい。

来年の年明けは
もう居ないかもしれないね。

人は留まらないな
形は違えど、なんにせよ。

今から海見よう
とか
今から温泉行こう
とか
今から呑もうよ
とか
今から髪剃って
とか

「行先はどこでもいいから
適当に助手席座らせて」
レベルでも

言えば「いいよ」って
答えてくれる人が
いつも居てくれるのは
最近俺には勿体ない気がする

いやそんな頻繁には言わないけど。
社会的な頻度もわからんが。

でも本当に。
俺を友人と言ってくれる人各位

多分俺より有意義に時間を過ごせる人
沢山いると思うから
暇でも断って良いからね。

時々適当に話して
適当に分かり合おう。

感謝はしているし
好いている。

多分みんなはわかってないと思うけど
楽しんでいるんですよ、俺。

閑話休題。

記念公演
お疲れ様でした。

とても良かった
行って良かった。

笛、綺麗すぎだなぁ。
僕には出ない音だった。

多分に、これも強烈な嫉妬。




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