生成AIによる嘘と真実
久しぶりにnoteを書こう。久しぶりすぎて、どんな口調で書いていたかも忘れてしまった。
昨年のChatGPT3.5のリリース以降、生成AI界隈が賑わい、テキストだけでなく画像や音楽の生成も刻々と進化し、簡単には人が作ったものとの判別がつかなくなってきた。
「嘘だった」、「コピーしたであろうそっくりな実物が元々あった」、などのハプニングは今や日常茶飯事である。
AIを使った生成は、人が同程度のものを創ったり作ったりするのに比べて、短時間でできることが多いので、成果物自体をAIに作ってもらい手直ししたり、もしくは途中の工程でAIを活用するという場面は激増した。その手軽さゆえに量産も容易になっている。最終成果物に人が責任を持たない限り、嘘にまみれた世界になる。現になっている。
「これは大問題だ」、「どう対応していくべきなのだろう」、と少し前までは憂慮していた。
しかし、よく考えてみると、これまで人間が発していた情報に嘘はなかったのだろうか。受け取り側は嘘を見抜けていたのだろうか。
生成AI以前の世界も何ら変わらないのではないか。そう思うようになった。
いまのところAIは人を学習したものだ。
事実と独創性に満ちた清く美しい世界。そんなものを期待するのは、自分ができないことを子に求める親のようなものか。
まして、インターネット以前の世界では、ファクトチェックという概念どころか、確認のしようがないことがほとんどだったではないか。人は昔から得られる情報のほとんどを鵜呑みにしてきたはずだ。
歴史だってそうだ。歴史が勝者にとって都合のよい嘘で塗り固められていることは公然である。人類史以前は、学者のいいなりとも言える。
要するに、人は嘘かどうかなど実はあまり気にしていないのである。実際、自分で確認する人はほとんどいないだろう。
真実は人の数だけあり、事実はひとつであるはずだが、事実だと信じていることは嘘かもしれないし間違っているかもしれない。
そんな世界で人間はずっと生きてきたのだから、今さら目くじらを立ててもしょうがない。こう考えると、AIに対しても世界に対しても少し寛容になれた。つい最近AIと喧嘩をしたばかりだが、これからはもう少し上手く付き合っていけそうだ。
自分がどんな世界のどんな時代に何を信じて生きているのか。それをじっくり考えるのに最適なときなのだろうと思う今日この頃である。