川村とあかりや

あかりやは私にとっては「人生の止まり木」だった。
あかりやで、特に目的なく集った人たちと過ごした時間があったから、
「自分の進みたい人生に嘘をつかずに、決断できた」と思う。

一体どういうことか、長くなるので、興味のある変わった方だけ
読み進めてもらえればと思う。

第一章:墨田区との出会い
第二章:あかりやとの出会い
第三章:ベトナムへの旅立ち


■第1章:墨田区との出会い

私は2020年10月現在、36歳。ベトナム人の妻と娘(2歳)とともにベトナム・ホーチミンで暮らしている。
仕事は、妻と一緒に、会社をつくり、経営させてもらっている。
ありがたいことに、お客様との縁に恵まれ、あくせくしながら、社員とともに働かせてもらっている。

今でこそ言えるが、あかりやにいた2009年12月当時、今の状態なんて全く見えていなかった。
リーマンショック吹き荒れる中、私は自分の人生に立ち往生していた。

当時、私は新卒として2008年4月に都内の某ベンチャー企業へ入社した。
しかし、入社後すぐに、当時100年に一度の不況と言われた、リーマンショックが勃発。私が入社した会社は業績が急落。
会社としては苦渋の決断だったと思うが、新卒入社の社員含めて大規模なリストラをせざるを
得なかった。私は何もできない営業マンの一人であったため、あえなくリストラ。

元々、海外の新興国で働きたい!という目標を持っていたため、
若くしてチャンスがありそう!と思いその会社に入ったのだが、早々に頓挫することになる。

会社の先輩方は、転職サイトに登録をして、転職活動を行っていたが、
僕は何か違うと思い、転職活動はしなかった。
何もできない25歳の若造のくせに、生意気にも「このまま転職活動をしても、
また同じことの繰り返しになる。人生のハンドルを他人に委ねたままで良いのか」とおもったのだ。

とはいえ、じゃあ何をするのか?と言ったらよく分からない。

私は自分の将来が見えず、どうしたいのか、
このあり余るエネルギーをどこに向ければ良いのか、全くわからなかった。

そんなときに、たまたま、私の家に居候していたともひろから
「お前の人生はまだまだこれからや。家賃が安いところに引っ越そうや」と言われ、
「居候のお前が言うなよ」と一瞬思ったが、
一緒に住んでいる友人がいるというのに心が救われたことを今でも覚えている。

じゃあどうしようかと思っていたところ、大学時代のゼミで関係のあった
「墨田区」に住もうと言うことになった。

では墨田区にしようとなったけれども、どこにどんな家がいいのかわからなかった。
当時、WEBでも墨田区の情報はあまり掲載されていなかったので、まずは地元の不動産屋にいこうという話になった。

今でも忘れないが、25歳、無職男性に対して、不動産屋さんはとても冷たかった。
「あんた大学出て、何で仕事してないの?」とか言われたのだが、それはこちらが聞きたかった。

この時まで、少なくとも家庭的にも友人関係的にも私は恵まれまくっていたと思う。
しかし、その恵まれた状況にいるということに気づいていなかった。
自分が裸一貫となり、赤の他人から「あんた何者なの?」と聞かれたときに何も答えられない自分がいたときに
初めて気付かされたのだった。

あのとき、とぼとぼと歩いて帰った帰り道の侘しさを僕は忘れはしないだろう。。。
(第二章「あかりやとの出会い」に続く)

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