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「勇気づけられた」あなたに

 何かに勇気づけられる。誰かの頑張っている姿とか、到底不可能と思われたことを成し遂げる様子だとか、そういったもののために、地道に努力する行為だとかに。
 勇気づけられることは尊いことだ。まるで自分が、そんな難しいことを達成できたり、諦めの心を振り切って行動できたり、そんな前に進むためのきっかけになるからだ。私たち人間はそうやって、他者の姿に感化されて人生の困難をはねのけて生きることができるユニークな生物だ。いかに論理的に、機構的に、法則的に無理だったとしても、勇気づけられることで人間は様々なことを可能にしてきた。

 しかし、「勇気づけられる」ことの力を、私たちは過信してはいけない。人間は確かに、誰かの偉業や努力や、必死な様子に感化され、エネルギーを貰える。けれどそれは、言ってしまえば「勝手に」そうなっているだけなのだ。
 その勇気づけるという行為、そして勇気づけられたという結果は、そのエネルギーは、やすやすとコントロールできるものではない。というより、その一連の流れを支配下に置き、思い通りにしようという考え方は、「勇気づけられる」尊さを著しく傷つける。
 勇気づけることは強制されるべきではないし、勇気づけられることが当然でもない。人によって、ただ自分の人生を全うしたいだけだったり、ただ、誰かの頑張っている姿を事実としてだけ受け止めたいということはある。
 もし、そんな時に「勇気づけたいという思いがありましたよね」「勇気づけられたでしょう」などという決めつけの思想をぶつけてしまえば、そこにあった尊さは失われる。勇気づける、そして勇気づけられるということの関係性は霧散し、それはただの道具となる。
 その「尊さ」「感動」「素晴らしさ」などのベタベタと貼られ、決めつけられたレッテルに、私たちの本当の気持ちが隠されてしまう。本来、そのようなものではないはずだ。それは、「勝手に」そうなっているのである。私たち人間は、自分自身の心のみによってエネルギーを貰うのだ。そして単に私たちは、自分自身のために何かを成し遂げ、その結果とし他者のにエネルギーを与えられる。

 それはコントロールできるものではない。そして、第3者に強制されるものでも、気付かされるものでもない。
 単に「勇気づけることができた」「勇気づけられてしまった」という結果として起こるエネルギーのやり取りこそが、まさにこの現象の素晴らしさなのである。

 そこに強制も、他者の目もあつてはならない。「勇気づけられる」ことは、ただそこにある、尊い現象であるだけだ。

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