見出し画像

五体満足でないキャラクターの表現方法を考える

 特に断りのない場合、「キャラクター」は五体満足だ。五体満足というのは「普通」ということである。普通なことに断りを入れる必要も、はっきりと示す必要もない。もし普通でなければ、それはそのキャラクターの「テーマ」となる。だからそれに触れないわけにはいかず、それを強調する必要すら生じる。
 それがキャラクターというものだ。キャラクターには、そこに適応されている「普通」と「特殊」をはっきりさせる義務が生ずる。はっきりするからこそキャラクターは認識される──つまり、この世に生まれるのだ。私達の前に現れるのである。

 一方で、キャラクターを取り巻く環境……世界観や物語はこれらの普通や特殊を曖昧にしようとする。なぜなら、これらは全体をまとめ上げるものだからだ。普通な状態から何か特殊なことが起こっていて、そしてそれがまた普通な状態に戻る。また、普通なものと特殊なものが同居している状況を表現する……そういうものである。
 いわば、物語や世界観は調和的と言える。当然のことながら、キャラクターのように「個」を大切にはしない。それよりも全体的なバランスの良さを重視するものとなる。
 すると、物語や世界観にとって、「特殊」は無視できないということになる。無視できずに、殊更に取り上げ、それを問題化する。だから「五体満足でない」キャラクターがいた場合、それを示す役割を担うのは、キャラクター自身ではなく物語や世界観の方にあるのだ。

 五体満足でないことをキャラクターを介して表現する場合、この「役割」を踏まえる必要がある。つまり、それがよほどキャラクターのテーマとして食い込んでいない限りは、物語あるいは世界観として表現されるべき、ということである。
 それはエピソードや設定や他のキャラクターとの関係性である。もしくは、総合的な雰囲気とも言える。もし、それらを用いないでキャラクターの身体的欠損や精神的不安定さや、社会的不適合さなどが表現される時、それらはそのキャラクターが、終わりまで語り続けるくらいの重要さや注目度をもって扱われなければならない。そうしなければ、不快感が勝るのである。わざわざ、キャラクター自信がその特殊性について言及するというのなら、よほど重要でなければ、その特殊は受け入れがたいものとなる。
 残念ながら、私達は多くの場合「五体満足」である。大小様々な不自由さを感じているとしても、だからこそ、人生を揺るがすほどの不自由さには拒絶反応を起こす。それは、共感したくないという本心でありながら、そういう状況に陥っている誰かが現実にいるということへの忌避感でもある。信じたくないのだ、本当は。誰でも「ちょっと不自由だけど、全体的に自由だよね」が落とし所と思っている。

 だから、キャラクターにはできるだけ、そのタブーに言及してほしくないし、そんなキャラクターがいることを信じたくない。それで、物語や世界観に託すのである。その無機質な「現象」として扱われる「五体満足でないこと」のほうが、随分安心して受け入れられる。

 特に断りのない場合、「キャラクター」は普通だ。そうでなければならないと、私達は無意識的に、強固に信じている。特殊をはっきりと示してくれるキャラクターという存在だからこそ、気持ちの良い特殊を見せてほしい。だからそうでない、共感の難しい特殊は、物語や世界観が表現を担う。
 ヘビーな表現の身体的欠損や精神的不安定さや、社会的不適合さを持つキャラクターは、あくまでそれを中心のコンセプトとする物語などにしか存在し得ない。私達はその問題性を、キャラクターだけで完結するものとして、抱えきれない、納得できない。
 だから、五体不満足をキャラクターがはっきり示すことは、1つの挑戦となる。ただ、その挑戦が成果や意味を生むかは、まだ疑問の残るところでもある。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ

いいなと思ったら応援しよう!