立ちすぎる ”キャラ” を抑えて。
私たちはストーリーを見たいのだ。それはキャラクター達の仕草や言動や関係性や性格や言葉などによって彩られる、目の離せない話の動きである。
だから、そこに必要以上の ”キャラ” 性はいらない。そのケレン味をたっぷり含んだいかにもフィクション的な要素は、私たちがストーリーそのものを楽しみたい時にとても邪魔なものとなる。
ストーリーを紡ぐのに、そこに出てくる登場人物たちは無くてはならないものである。当然のことだが、彼らがいなければストーリーは成り立たない。彼らはそのストーリーを動かすものでありながら、ストーリーという名の彼らの運命に翻弄される者であり、その動きや関係性や感情や性格や言葉……全ての要素がストーリーに貢献する。
だからこそ、勘違いしやすい。
登場人物達はストーリーの構成要素であるが、しかし、その設定、つまりキャラクター性は、時として「ストーリーを見せる」ということを阻害する。
よく、「キャラ立ち」などと言われるものは、このストーリーを阻害する筆頭だ。それを求めすぎるあまりに、ストーリーに与える影響を無視してはならない。私たちが、求めるストーリーとは、その基本を人間ドラマとしているから、即ち、登場人物たちの言動や性格や判断などは、現実の人間と同じでなければならない。もしくは、それと同等の納得感が必要だ。
だが、「キャラ性」というものは、ある種それとは対極をなす、登場人物たちへのトッピングである。それはとても単純な表象として、登場人物たちを表してしまう。
人間ドラマとは、一言では表せない私たち人間の有り様を描くものであり、簡単に理解できるようなものでは本当はない。そのため、この「キャラ化」した登場人物たちは、行き過ぎると、そのような人間ドラマを構成することができなくなってしまう。
このようにして、過度なキャラクター性をもった人物たちのおりなす物語は、ストーリーを単なる「キャラクターもの」に変えてしまう。それは、漫画やアニメなどにおいては強みになり得るが、そうでないジャンルにとっては、ストーリーの面白みや感情移入できる幅を狭める要因になってしまう。
二次元的なジャンルは、リアルよりもフィクション的な描写と親和性があるからだ。描かれる登場人物たちの姿がまずデフォルメされたものであるし、それに応じた出来事や感情の描写もそうである。だから、「キャラクター」が許される。それどころか、そうでなければならないことすらある。
そのため、三次元的な表現(映画やドラマや舞台など)において、過度なキャラクター化には注意が必要である。
得がないとは言わないが、少なくとも、何も考えずにキャラ立ちをさせてしまうと、リアリティが薄れ、滑稽になったり、気味が悪くなったりする。それはつまり、面白くない物語の充分な根拠となる。
だから、キャラクターにばかり注目せず、その表現によってストーリーがどのように見られるのか、ということをゆめゆめ、注視しなければならない。
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