際限のなさをフィクションで
全長何十メートルもある大怪獣、世界中の人々の協力を得て放つ超攻撃、ひとたび歩けば大地ひび割れ地震すら起こす巨大ロボット、そして、何兆円とも言われ何カラットかも不明なダイヤモンド……
私たちは、途方も無いものが好きだ。
大きくて強い、広大で、高価で、際限のないものを気に入ってしまう。現実ではあり得ないか、目にすることなど一生ないようなそれら。だからこそ、私たちはそれを求める。求めてしまう。
自分のものどころか、知り合いのものにすらならないような「途方もなさ」こそ、私たちは注目してしまうのだ。そうでなければ見る価値はないだろう。そのように、無意識にでも、思っているかのように。
だから、フィクションの世界では「途方もなさ」は正義なのだ。あるいは、正義であってほしいと誰もが願っている。
海底には何万マイルも潜るし、太陽系を飛び越えて何光年も旅をする。かと思えば、まるで全てを見通していたかのような推理で探偵は犯人を追い詰め、恋愛は、何度すれ違いを繰り返しても奇跡のような偶然によって成就する。
これらの凄まじい力を、存分に発揮できる場がフィクションである。その力の恩恵を受けるとどうなるのか、という追体験を、私たちは求めている。何らかの途方もなさは、フィクションでこそ活き活きと描かれ、想像できる。どんなに頑張っても現実では味わうことの難しいそれは、私たちをフィクションへと誘う。
フィクションが好まれるのは、途方もなさがそこにあるからだ。感じられるからだ。どこまでも広大で、終わりがなく、何もかもがそこにあると思えるようなイメージの世界。
私たちが好きな際限のなさを、フィクションは見せることに最適化されている。裏を返せば、フィクションはそうでなければならないということだ。そこに行けばいつでもそれを見られる檻。フィクションの正体とは、際限のなさを閉じ込める檻である。
皮肉なことに。
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