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キャラクターの定義を「利害」によって理解する

 キャラクターとはなんだろうか。

 私たちは普段、キャラクターというものに触れていいながら、ありふれた1人1人のキャラクターの裏にある、根幹部分を知らない。
 なぜなら1つには、それを気にしなくともキャラクターを楽しむことができるからだ。そしてもう1つには、その裏側を知るためには、キャラクター単体ではなく、キャラクター達の関係性を見なければならないからだ。
「キャラクターとはなにか」。即ち、この難しい問いに答えるためには、キャラクターが他のキャラクターとにらみ合う、「利害」のことを知らなければならない。

 ある作品の中に登場するキャラクターというのは、それぞれが、それぞれのために動く利害関係者であることが基本だ。これは現実の社会でも当たり前のことで、創作においても、キャラクター達は自分にとって有利なことと、不利なことを認識しながらそれに基づいて行動する。
 もちろん、その認識の程度はキャラクターによって異なる。他人のことまで完全に把握しているキャラクターがいれば、自分にとって何が有利か判然としないというキャラクターもいる。その認識の違いは、キャラクターの個性となるところであり、知能や受けてきた教育などに応じて変化するものだ。
 しかし、少なくとも現実の赤ん坊が、自分にとっての「快」と「不快」を判別して泣くように、最低限、どのようなキャラクターもそれは分かっている。

 つまり、キャラクターというものの根幹にはこの快不快の判断があるということである。これがなければ、そのキャラクターは成り立たない。だから何らかの創作に登場するキャラクターは必ず「心地よいもの」と「心地よくないもの」を持っている。そしてその設定があることが、まさにキャラクターであることの1つの定義であり、それさえあれば、少なくともキャラクターとして成立するという十分条件でもある。

 だが、これで定義付けが終わったわけではない。個々のキャラクターについても、「どういった存在なのか」が分からなければ、それは完了していない。

 キャラクターはこの利害をめぐって様々な派閥の中で立場を持ち、それに応じて態度を変える。現実の人間と同じように。
 そのやり取りの中に表れた感情から、快不快を読み取ることが、そのキャラクターを定義づけることになる。これはキャラクター単体を見るだけではなし得ないことだ。なぜなら単体から見えてくるものは単なる動かない「設定」でしかない。
 実際には場合によって様々な対応をとること、まさにその瞬間の言動によって、キャラクターの真の快不快の基準を知ることができる。
 設定だけでは読み取れないこの部分を確認して初めて、そのキャラクターの定義付けが完了する。

 キャラクターというものは、その全体として「快不快を持つもの」と定義付けられるが、より詳しく個別のキャラクターを定義付けたいとき、利害関係者としての行動を追いかけることで、それができる。
 だからキャラクターは難しい存在なのだ。それは、単体を眺めているだけでは中々に「どういうものか」が見えてこない、ミステリアスさを持っている。

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