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カタルシス・ストーリーではなく素直に「楽しい」を描写する
カタルシスというやり方は、もはや現代のストーリーには必要とされなくなってきている方法だ。少なくともその方法を見直す段階に、今は来ている。
カタルシスとは魂の浄化を意味する特定ジャンルにおける単語であるが、ことストーリー創作に転用された場合には、以下のような意味合いを持つことになる。
ストーリーの最初に(主に主人公が)ひどい目に遭う。そしてその境遇は、ストーリー終盤に大きく改善され、喜びの感情が前面に出る。
これは端的に、「良いことは最後まで取っておく」「じらす」「不良がごみを拾うと良いやつに見える」などと同じ、いわゆる「落として上げる」方法論である。
この方法は、始まりから終わりまでを、その順番で読まなければならない「ストーリー」というものとの相性が良く、昔から様々な物語において見られた。
読み手は、ひどい目に遭った主人公に同情し、周囲の心なさを恨む。しかし、最後に分かり合え、喜びに涙すらする主人公とともに、その心を震わせるのである。
この手法は確かに効力がある。単純に「良いこと」をキャラクターにもたらしてしまうだけでは、なんの感動もないのは自明だ。
しかし昨今、それは通用しなくなっていることもまた、事実である。
何故なら、ものすごく簡単な話で、「まずひどい目に遭う」というのが、そもそも読み手に耐えられないのである。
これは時代にかかわらず普遍的な事実であるが、現代では競合する娯楽も多く、いわば娯楽戦国時代である。
だからストーリーを受け取る人々は、辛くなったらいつでもそれを読み進めるのをやめて、他の娯楽に夢中になることが容易になのだ。
これではそもそも、カタルシスを味わうどころか、その準備段階で脱落である。
また、これに拍車をかけているのが、ストーリーにおけるカタルシスの「不確かさ」である。
なにせ、ストーリーは構造上、前から後ろ、一方通行に進めていくしかないコンテンツなのである。つまり、「まさにその部分」に差し掛かるまでは、実際にそれがどうなっているのかを確かめることができない性質を持つ。
仮に、どこかで読むのをやめて、ちらりと後半の展開を覗いたとしても同じだ。結局、ストーリーとは「引き続いているもの」だから、ちゃんと順番通りに、前の展開を体験していなければ、後ろの展開を正しく楽しむことが困難になる。
結局、ストーリーをルール通りに味わっていかなければ、そこにあるはずの「カタルシス」にたどり着けない。そのような不確かさへの不安を抱えながらストーリーを進めていくのは、はっきり言って苦痛なのだ。
そのような側面を持っているストーリーだからこそ、カタルシスというやり方は上手くいったのだし、同時に、その側面が足かせにもなっている。
つまり現代では、本当にあるかわからないカタルシスを、不安とともに見つけようとしながら、安易に消費できる他の娯楽への誘惑にも勝たねばならない。
そうしなければカタルシスを正しく味わえない。
ごみを拾うとの噂の不良を追いかけ続けるのだが、なかなかごみ拾いの現場に出くわさないようなものである。
だから、よほど、カタルシスを期待できるようなストーリー構造や表現を用いるか、道中の苦難やひどい境遇に読み手が耐えられるような仕掛けを用意しておくかしない限り、現代ではこの「カタルシス」という方法は、そう上手くはいかないものとなっている。
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