アスペルガーと私

 この文章を、同じ病気に悩む人たちに捧げたい。

■0:当たり前が当たり前でないということ

クラスメイト「転校生、よろしくな! 俺は新見っていうんだ!」
私「ニイミって、こないだのオウム事件の容疑者と同じ名前だね」
クラスメイト「っ……先生! 転校生が言っちゃいけないこと言いました!」

 これは小学4年生で転校した私の転校初日の会話です。ほとんどのすべての人は、私の悪辣さを理解したと思います。これに留まらず、高校以後、MtGの世界に飛び込んでからも、私は悪辣な発言や行動を繰り返し、悪名を高めていきました。しかし、そこに「人を傷つけてやろう」という悪意があったかというと実はなく、この状況でも、後に悪名を獲得してしまう場面でも、私の思いは1つ。「あれ? おかしいな?」でした。

 アスペルガー症候群(アスペルガーしょうこうぐん、Asperger Syndrome)です。

 主な要因として、上記のような社会的コミュニケーション、所謂「空気読み」の困難さ、興味が極めて狭く興味がないものを極度に嫌がる、同じ行動や習慣を繰り返し同じ物を毎日食べる、などの問題があります。私の場合、おまけで、吃音と睡眠障害と躁うつ病もついてきています。アスペルガー症候群は近年になってようやく研究が進み、「そういうもの」という診断とまわりの認識が起こるようになりましたが、その名が広まる前は、ただの悪辣な人間でしかありませんでした。


■1:病気は免罪符なのか

 悪意がなく、そもそも出来ない以上、それを強引に求めてもそもそもどうにもなりません。ようは「アスペルガーだから許してもらう」しかない、という、免罪符のように機能すると言えるかもしれません。しかし、あくまで私個人の考えですが、免罪符を免罪符として認めるのは、それを知る親しい間柄のみです。アスペルガーという病気を正しく理解し、彼は「そう」なのだという人は、対象が悪辣な言動を取っても「いつものことだ」と思うでしょうが、病気を理解しておらず、今まで交流のなかった他人には、それが「いつもの病気由来のこと」なのか「悪辣な人間性故の問題なのか」がわかりません。そこで怒った相手に「アスペルガーだから許して欲しい」というのは、甘えに思います。なにせ、本当にアスペルガーであるということをその場で証明できないということは、逆に、「真に悪辣な人間にとっての免罪符にもなる」ということになります。これは社会的に許されていいことではありません。
 親しい間柄にしても、免罪符として機能するのは「半分」です。相手側が理解の元、仕方ないな、許さないとな、と思うのは相手の自由です。しかし、それを病気の側から、しょうがいないだろ、許せ、と強要するのは、私には病気を利用したハラスメントのようにすら思います。アスペルガーは果たして「障害」なのか、という議題は今もあるようですが、社会生活に対してマイナスに働く、という意味では明らかな障害であり、私はこれを、背負い、理解し、向き合い、そして、「乗り越え」ないといけないと考えていました。


■2:乗り越えようとした結果

 私は、自分がアスペルガーであり、自分の悪辣な行動が病気に由来した「空気の読めなさ」であると理解した時から(あるいは、病気を理解する前、頻繁に起こるトラブルへの対処を考えた時から)「他者視点」の獲得の努力を行いました。それは、シャーロック・ホームズにおける論理的思考であり、「AであるからBである」といった数学的数式を持って、他人の現在の思考、立場、視点を考えるというものです。アスペルガーでない人間は、こういった論理的思考を介すことなく、他人の思考、立場、視点を「多少曖昧ながらも」正しく判断します。それを、しっかりと数式を介して読み解くということは、極めて面倒であり、また、別の問題も発生します。それが、私が職業に就いた時のことでした。
 アスペルガーと天才的才能はよく紐付けられると言いますが、少なくともアスペルガーは誇れるようなものではなく、なにより、私自身が「そう」であると思いたくないので、これは1つの説として扱います。その上で、19歳で某ゲーム会社に入社した私は、20歳の時には月収40万をいただき、プランナーとしてチームに指示を出す立場にありました。この時、自身の問題を理解していた私は、社内で問題を起こさないよう、注意深く他人の思考を考えていました。結果、私が論理的思考によって導いたのが、被害妄想です。
 同僚が出来ないものを、当たり前のものとして、圧倒的速度で行う。そして、専門学校すら出ていない中卒の人間が、次々にヒットを飛ばし、給料と社内での地位を上げていく。自分より若く、経験もなく、稀に悪辣な発言をしてしまうヤツが。そういった人間に、「妬み」の感情を獲得しないものがいるでしょうか。さらには、吃音に加え、睡眠障害として業務中に寝てしまう(それが問題ない速度で作業を行えるとしても)ような人間に、ネガティブな感情を「一切」持たない方が無理というものです。しかし、その量は、社会的な大人である以上、ある程度抑えることができるはず、なのですが、私はそれを未熟な論理的思考を持って「限りなく大きい」と判断しました。結果、社内ではトラブルなど起きていなかったのに、「周りの人間は全員私を嫌っている」という結論の中で仕事をすることになり、それは、私の心を病ませ、後天的なうつ病を背負わせるに十分な年月を経て、うつによる体への影響として発露しました。今でも私にとって、食事は食べたら少量を吐くのが当たり前であり、薬が切れると喘息が止まらなくなるのが当たり前です。

■3:共に歩む今

 マイナスの事柄を、マイナスであると悲観するよりも、それはそれで「個性」であり、面白い側面もあるんだと思おう。福永令三著作による児童文学「クレヨン王国」にて、12の悪い癖を持つ主人公が最終的にたどり着く「悟り」であり、福永令三という作家が伝えたかった最も大きなことであると思います。
 さて。会社を辞め、障害年金で生きるようになった私は、魔女を殺す毒である「暇」に対処するために、ゲームという選択を選びました。しかし、1人でプレイするゲームは、攻略されるべくして作られている消耗品です。そこで私は「永遠に楽しめる手段」として、対人ゲームを好むようになりました。元々趣味として持っていたカードゲーム、MtGに加え、ボードゲームやTRPGを楽しむ毎日です。
 対人ゲーム、特に、3人以上で行うゲームは「政治」が発生します。圧倒的な力で相手を打ち倒そうとした場合、1対1対1であったゲームは、1対2のゲームに変わってしまうのです。つまるところ、多人数ゲームを楽しむ(勝利する)ためには、相手の思考を論理的に理解し、平和な環境の中で協力し、そして、最後に一瞬だけ裏切る。そういった技術が求められるのです。この中で発生する「他人からのヘイト感情」を、極めて正確に読む必要があったのです。それは、私が過去に失敗したものでした。
 この技術を高める中で、気づけば私は超常の力を手にしていました。論理的思考が極まった結果、相手の感情が手にとるようにわかり、どんな相手であっても、会話によって一瞬で意気投合することができるようになりました。無論、ゲームの実力も高まっています。私はこれを「ゲームを極めようとした副産物」と捉えていましたが、近年、これがその実、「アスペルガーの人間がゲームを極めようとした副産物」であることに気付きました。
 一般的な人間は、論理的思考を辿らずとも、「ある程度」は理解できるのです。「なんとなく」です。なんとなくわかるなら、それ以上を求める必要がありません。しかし、「一切わからなかった」私は、それを求めるべき必要性があり、結果的に、極めるに近い位置に至ることができたのです。これは、私がアスペルガーでなければ、決してたどり着けなかった位置でしょう。今私は、自分のアスペルガーという病気が、「障害」ではなく「ギフト」であったと感じています。


■4:容認というゴール

 私は今幸せです。残念ながら、うつによって蝕まれてしまった体こそ治らないかもしれませんが、それは私に障害年金として日々の生活を生きるに困らないだけの金額をもたらしてくれます。そしてなにより私には今、ゲームによって結ばれたコミュニティがあり、大勢の友人がいます。20代の頃、私は30までに人生に絶望するか、突発的な希死念慮によって死んでしまうだろうと考えていました。しかし、一方で今は、「もう人生に満足したから死んでもいいや」と感じています。そして、おそらくその私の願いは、私の周りの友人たちが許してくれないでしょう。
 アスペルガーは強敵でした。30年以上私を苦しませました。しかし、それは今、共に歩むギフトとして私の隣にあります。クレヨン王国の主人公のように、どんなに悪い癖も、必ずどこか良いことに昇華できるという悟りに至ったのです。
 世界にはままならないことが溢れています。ニュースをつければ、コロナウィルス感染症や、政治関連のネガティブな話題ばかりが聞こえます。SNSでは、そういった話題の渦中にある人間に一方的で無責任な言葉を向けたり、社会的悪に対する私刑が至る所で行われています。しかし、それらは根源的にどうしようもない「悪」なのでしょうか。私は違うと思います。そもそも、善悪とは、事象に対して付与されるものではないのです。事象を読み解く人間が観測した感情なのです。これらを、悪と捉えるか、善と捉えるか、もしくは、「無」と捉えるかは個人の判断なのです。私は、すべからく、これらの事象を「無」と捉えます。確かに悪である側面はあるかもしれないが、かといって善の側面を紡ぎ出すことは不可能ではない、として。それは、「容認」という悟りであり、そして、アスペルガーとの戦いを終え、今が幸せであると感じている私だからこその結論です。


■5:今を悩む人たちへ

 諦めないでください。足掻いてください。意志をもって「何か」をしようとし続ける限り、それはどこかで成果になります。私のように、ゲームというまるで関係ないところから、解決に至る可能性もあります。「これはしょうがないものだから」という免罪符にしてしまえば、もしくは、もうどうしようもないからと死んでしまえば、その問題は一生解決しないのです。「何か」をしてください。今までしていなかった「何か」を。そのために、影響を与えようとする他人との縁を重要にしてください。最終的に、幸せになるゴールにたどり着くためには人との縁が必要なのです。先人に、そして、人生を共に戦う相手にリスペクト(尊敬)を。これは、ゲーマーが最初に至るべき心がけです。
 その上で、この文章も、また、あなたに影響を与えようとする「すべて」を、「あなた」が判断してください。悪いことだと周りが言っているから悪いことなのだと思わないでください。緊急事態宣言が出ているから緊急事態なのだと思わないでください。判断すべきは常に己です。そして、判断をするための材料を集めてください。インターネット社会の今、判断材料は至るところに転がっています。他人が言う良し悪しとは、その判断材料でしかないのです。


■6:最後に

 今私の隣に居る大勢のゲーム仲間と、私をここまで育ててくれた家族に、感謝を。

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