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12月18日は重光葵が国連演説を行った日
わが国の今日の政治、経済、文化の実質は、過去一世紀にわたる欧米及びアジア両文明の融合の産物であつて、日本はある意味において東西のかけ橋となり得るのであります。このような地位にある日本は、その大きな責任を充分自覚しておるのであります。
1956年12月18日 国連総会は76か国の全会一致で日本の加盟を決定。
重光の加盟受諾演説の一部です。
重光の外交人生は苦闘の歴史。
第一次世界大戦ごろから始まります。
重光の外交官人生の始まりはドイツから。第一次世界大戦で同盟国であるイギリスが参戦したことからドイツとの関係がこじれ、重光ら日本人はドイツからの撤退を余儀なくされます。
第一次世界大戦が終わってパリ講和(平和)会議。
重光は外交官として、日本代表に同行します。
そこでみたものは、人種差別と日本外交の立ち遅れ。
当時は植民地政策のあった時代です。
重光ら若手外交官を中心に外務省を強化すべく「外務省革新運動」が起こることになります。
アメリカやドイツ、中国、ソ連、イギリス。重光が海外で勤務した国です。
特に中国勤務が長く、中国と対等な関係になるべく努力しています。
中国勤務の間に、日本と中国との戦争の波が押し寄せます。
片足を失うなど犠牲を払いながらも停戦調印。
しかし、戦争回避に尽力するも、日本は戦争への途に突き進んでしまいました。
日本は国際連盟を離脱。
第二次世界大戦に突入していきます。
戦時中、重光は外務大臣を2度務めます。
やめたくてもなかなかやめられない戦争。
そんな中、大東亜会議が開催されます。
アジア地区の独立・平等・互恵・解放をうたいたかった 「大東亜会議」。
大東亜会議とは第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)11月5日 ~6日に東京で開催されたアジア地域の首脳会議のことです。
重光は平和への想いだけでなく、戦後の日本のことを考えていました。
長年植民地であったアジアの国の独立を考えて
大東亜共同宣言を構想します。
しかし、軍部の思惑もあって、大東亜会議は重光の理想とはかけ離れたものになってしまいます。
1945年ポツダム宣言受諾。
9月2日、重光は日本代表として、片足の体を引きづりながらミズーリ号で降伏調印を行います。
その後、ソ連のごり押しにより東京裁判でA級戦犯になります。
約7年巣鴨プリズンで過ごすことに。
その後は政治家として、再度外務大臣を務めます。
国際連合に加盟するのは困難を極めました。
何度もソ連に拒否権を発動されたのです。
そして1956年12月18日、
国際連合で重光は演説を行います。
国連の元大使、明石氏によると、重光は後半は疲労困憊したようすで、英語で演説したといいます。
明石氏によると、それでも感動的な演説であったと述べられています。
気になる方は演説の全文を読んでみてください。
重光は欧米と協調しながら、アジアの地位の向上を図った人生だった。
それはなによりも、日本のためだった。
私はそう考えています。
参考 『国際連合 軌跡と展望』明石 康