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【 ダンサー・イン・ザ・ダーク 】 感想vol.067 @なんばパークスシネマ③ 21/12/11
00/丁/シネスコ/監督:ラース・フォン・トリアー/脚本:ラース・フォン・トリアー/撮影:ロビー・ミュラー
公開当時は田舎の高校生であった私は、劇場で観賞することが叶わなかった。大学に進学した後に、レンタルビデオ店でVHSを借りて来て、一人暮らしの部屋にあった16インチのブラウン管テレビを通して視聴したわけなのだが、この作品には相当くらってしまった。午前中に観たと思うのだが、昼日中から嗚咽号泣。奥歯を噛みしめても涙が止まらない。希望の光は兆しても、いとも容易く閉ざされてしまうのだ。観終えた後は放心状態で狭苦しい6畳の部屋の中を彷徨い歩いたのを覚えている。そんな、深く心に突き刺さった作品が、国内での上映権終了となるため、最後の興行を打つとなれば、観ずにはおれまい。深淵なる闇の中へと再び飛び込もうではないか。
ストーリーについて。チェコからアメリカへとやってきたセルマ。彼女は工場で働きながら、女手一つで息子のジーンを育てている。共に工場で働く年上の親友キャシー、セルマに対して密かな想いを寄せるジェフ。隣人の警察官であるビルとその妻のリンダに支えられながら、質素で貧しい暮らしではあるが、セルマは大好きな歌を心のささえに懸命に生きている。しかし、彼女の視力は遺伝性の病により衰え続け、失明寸前。息子もまた、生まれつき視力が弱く、手術をしなければ、セルマと同じ道を辿ることになる。その手術費を稼ぐために仕事に励み、こつこつと貯金をしていたのだが、ビルからリンダは浪費癖がひどく、破産寸前だと告げられる。しかし、貯めたお金を貸すことはできないと拒むも、隠し場所を見つけたビルに全額奪われてしまう。お金を返して欲しいと交渉するも、意見が決裂し、セルマはビルを殺してしまう。捕まる前にセルマはお金を医師に預け、息子の将来を託す。絞首台に立ち最期の時を迎えた時も、彼女のささえはやはり歌であった。
昔に観たのはVHSのブラウン管テレビあったが、今作は4Kデジタルリマスター版。正直、凄くきれいになっているという印象はなかったのだが、やはりスクリーンサイズで観る方が、没入感の深さが比ではない。ラストシーンにはやっぱり涙を禁じ得なかった。またしても奥歯をこれでもかとばかりに食いしばり、こぼれだす嗚咽を噛み殺していた。こうなる事は知っていたのにも関わらずにだ。怖いもの見たさを止められないのは、人間の性なのだろうな。
映画の随所で、つらい現実から逃れるように、ミュージカルシーンが挿入される。ビョークの歌というのは、流行りの言葉で言ってしまえば「呪言」であろうか。歌声に呪力が込められている。聴いていると別次元へと連れ去られてしまうのだ。どんどんと自己乖離が進み、このまま聴いていると死んでしまう!と思うも、終わらないで欲しいと願う気持ちもある。これこそが天賦の才というものなのだろう。彼女は音楽を作るべくして作り、歌うべくして歌っている。つくづく才能というものへの憧れを実感する。
ビョークばかりに目がいってしまうのだが、キャシー役を演じたカトリーヌ・ドヌーブが白眉である。全くもって派手さのない役どころであったが、いかに彼女の存在がセルマを支えているのかというのが、ビシビシと伝わってきて、こういった友がいる人というのは、きっと幸せだろうなと羨ましくも思う。私はべったりべったりの関係が苦手ではあるし、友と呼べる人もいないが、たまには思い出して、気軽な会話ができる相手が欲しいなとも思う。ああ、寂しいことを書いてしまった。
思えば、『ダンサー・イン・ザ・ダーク』が初めて観たラース・フォン・トリアー監督作品である。その後は機会をみては過去作や新作を追いかけているわけだが、監督が描く陰湿さや救いのなさに魅了されて、抜け出せないのかもしれない。劇場で観れて良かった。