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時差進化 - 第10話:陸が揺れる影
深海調査船「オセアナ」の制御室で、ウィル・ディアス船長が苦渋の表情を見せていた。海底に眠る結晶ファージの“巣”に挑み、右利き生命の核心へ迫ろうとした潜水チームは帰還したものの、新たな緊迫情報が舞い込んできたからだ――沿岸で異常魚が相次いで捕獲され、地上社会がざわつき始めているという。
「これまでの生態変化が深海にとどまらず、ついに海洋表層まで浸透しつつあるってことか……」
ウィルは通信端末を睨みつつ、かすかに頭を振る。「近隣の漁港で捕れた魚の一部に、D型アミノ酸由来の物質が検出されたそうだ。もはや陸地が他人事じゃなくなった。」
「予想していた最悪のシナリオが、早くも現実になりつつあるのね……」
ヘンリエッタ・サントスが歯を噛む。潜水艇で採取したサンプルは確かに謎の鍵を握っているが、事態が加速しすぎて分析が追いつかない状態だ。海底の結晶ファージはかつてないほど活動が活発化し、右利き生命の干渉領域が急速に広がっている。
陸への波及とパニックの兆候
ミーティングルームには、アナベル・コールマンが深刻そうな顔で入ってくる。
「沿岸部では“奇形魚が打ち上げられた”“海水浴客が謎の発疹”などの噂が拡散し、メディアが騒ぎ出しているわ。政府は非常事態こそ宣言していないけど、封鎖や大規模な立ち入り禁止を検討しているみたい。」
「人間にもD型分子の影響が及ぶ可能性が高まった、ということか……」リン・マルグリス博士が難しい表情を浮かべる。「鏡像異性体の融合が、急速に海洋生物全体へ伝播しているのなら、私たちオートファージの異常がさらに拡大するかもしれない。」
「このままだと、本当に地球全体の生態系が塗り替えられるかもしれないわね。」
ヘンリエッタは深いため息をつく。「でも、見方を変えれば、これは別の進化が本格的に目覚めたってこと。問題は、それが人類社会にどう影響を及ぼすか、どう共生を図れるか。」
ウィルがうなずく。「強制的封鎖が決まってしまえば、私たちは深海の調査どころじゃなくなる。今のうちに、結晶ファージの分析結果をまとめて、外部へ速やかに発信しなければ。」
SOSを抱えるオセアナ
しかし、船内も安泰ではなかった。D型分子由来の症状を訴えるクルーが徐々に増え、オートファージ異常が疑われるケースが二つ三つと連続して報告され始める。軽度の症状とはいえ、放置すれば何が起きるか分からない。
「これ以上、我々だけで対応し切れないかもしれない……」
オットーが医療班のレポートを読み、厳しい口調で言う。「急場しのぎの薬剤と休養で抑えてるが、長期化すれば船内全体を襲う可能性もある。そのときは本当に取り返しがつかない。」
「つまり、外部から医療支援や適切な防疫対策を受ける前に、私たちがやるべきことはできるだけ早く終わらせるしかない、ということね。」ヘンリエッタは歯を食いしばる。「深海での採取結果を元に、ファージを無力化する方策を探さないと。」
「無力化か、あるいは共存の道を探るのか……」リンがつぶやく。「どちらにせよ時間勝負。私たちが結論を出す前に、国家レベルでの“強制封鎖”が来るわ。」
不穏な大気と嵐の予兆
ちょうどそのタイミングで、天候まで怪しく変わり始めた。船外の雲が厚みを増し、突如として風が強まり、波が荒れだす。テレビや通信ニュースでも、「熱帯性低気圧の急速発達」が警戒報道されていた。
「嵐が来るのか……海上が荒れれば、船の定位置も保てなくなるし、さらに観測も困難になるわね。」アナベルが窓の外を見ながら声を落とす。「焦って潜水艇を出すのも危険だし、船ごと退避したら結晶ファージの調査が……。」
「踏んだり蹴ったりの状況ね。」ヘンリエッタは苦笑いしながらも決意を新たにする。「でも、嵐で封鎖が遅れるかもしれない。時間を稼げるなら、今こそ必死で研究を続けましょう。」
そう言って、彼女はラボへ駆け込んだ。潜水艇で採取した結晶サンプルと右利き生命の微生物を顕微鏡下で解析する。オットーやリンも加わり、細胞膜や遺伝子配列の立体的構造を一つひとつ洗い出す。ここに“時差進化”の真実と、オートファージ暴走を止めるカギが隠れているはずだから。
第一の突破口?
「見て、ここ。」リンが興奮気味に声を張り上げる。「このファージ構造の表面タンパク質が、左利き生命の酵素認識サイトに非常に近い配列を持っている。つまり、D型とL型の両方に部分的に適合するよう作られた、ってこと。」
「つまり、ファージが“通訳”のように働き、鏡像異性体の壁を越えさせている、という仮説がさらに強固になるわね。」ヘンリエッタはその解析データを覗き込む。「この機能をブロックできれば、右利き生命の侵食を止められるかもしれない。」
オットーも意を得たように頷く。「逆に、これをうまく利用すれば、鏡像異性体を制御しつつ融合させる“共生ルート”を開ける可能性があるぞ。どっちの方向にしろ、すさまじいテクノロジーが潜んでる。」
ウィルがラボに顔を出し、荒れ始めた天候の報告を簡単に伝えると、「封鎖の命令が来る前に、ここから先にどう動くか早めに決めてくれ」と促す。風速が上がり、外洋はうねりを増している。
陸が揺れる影
その頃、外部との通信で新たな知らせが舞い込んだ。沿岸で捕獲された深海魚がさらに増えており、中には見るからに異形化した個体も混じっているらしい。メディアは“地球外ウイルスか?”“奇病のパンデミックか?”と囃し立て、半ばパニックが始まりかけている。
アナベルが通信を終え、焦りを隠せない表情でラボに戻ってくる。「…どうやら、本格的な封鎖指令が検討段階に入ったわ。近隣諸国も協調してこの海域を閉じ込めようとしている。もし発令されたら、オセアナも強制退去になるわよ。」
「もしそうなったら、私たちの研究は中途半端で終わる。ファージの意図も解明できず、D型生命が勝手に暴走するか、あるいは強硬策で押し潰されるか……」ヘンリエッタは言いかけて言葉を飲み込む。「そんな結末、誰も望んでないわ。」
ウィルが短く息を吐く。「陸が揺れる影――つまり地上社会に波及する危機は既に避けられないのか。だが、ここで諦めたら、本当の答えは永遠に闇に葬られる。少しでも可能性を探るしかない。」
次なる選択
船内に警報が鳴り響く。甲板に大波が打ち上げ、船体が大きく揺れはじめた。台風並みの嵐が接近しているらしい。クルーたちが慌ただしくデッキの固定や緊急器具のチェックに走る中、ラボではヘンリエッタたちが最後の猶予を生かそうと必死に解析を続けていた。
「結晶ファージを制御できる可能性が少しでもあるのなら……この嵐の間に結果をまとめるしかないわね。」リンが決心したようにパソコンへ向かう。
「何とかしてこの集まったデータを外部へ送信できれば、世界が状況を正しく理解してくれるかもしれない……。」
「やりましょう。」ヘンリエッタとオットーも席につき、嵐の轟音を背に、ファージの遺伝子解析・タンパク質構造、オートファージ異常との関連などをまとめ上げていく。船体は大きく揺れるが、彼らの意志は揺るがない。
一方で、不安が一切ないわけではなかった。陸への波及がすでに始まった今、世界がパニックに陥って強制封鎖を断行するのが先か、オセアナが突破口を示せるか――勝負は刻一刻と迫っている。
外洋の暗雲が、もはや昼夜の区別をわからなくするほど厚みを増している。海上に吹き荒れる暴風が、海底の“時差進化”にも、やがてなんらかの影響を与えるかもしれない。すべてが混乱する寸前で、彼らは一筋の光を探そうともがいていた。
海と陸の両方が大きく揺れ始めるこのとき、オセアナのクルーは更なる選択を迫られる――深海からの進化が、とどまることを知らずに広がろうとしているからだ。