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時差進化 - 第7話:学者の警鐘
深海調査船「オセアナ」の制御室には、苛立ちと混乱が入り交じる熱気が漂っていた。右利き生命と左利き生命の境界が崩れ、鏡像異性体を超えた干渉が進む中、乗組員の体調異変がいくつも報告されはじめたためだ。上層部からの圧力も強まり、研究継続か撤退かで船内の意見が割れつつある。
「ここにきてD型アミノ酸由来の分子がさらに検出されるなんて……。」
ヘンリエッタは、ラボの端末に映るクルー健康管理記録を見ながら顔を曇らせる。「このままじゃ、オートファージ異常が広範囲に発生するかもしれないわ。」
「悪いが、みんなの安全を確保するのが先だろう?」
ウィル・ディアス船長は腕を組みつつ、制御室のモニターに映る深海カメラの映像を横目で見ている。熱水噴出口では、先刻よりもさらに激しい発光が渦巻き、光のリズムが倍増したかのように見えた。
「研究継続か撤退か……どちらも判断を急がなければ大変なことになる。」
アナベルの疑念
そこへ、新たに姿を見せたのがアナベル・コールマンだった。遺伝子工学と生物学的安全性の観点から呼ばれた専門家で、オットーやリン・マルグリスとも知己がある。彼女は資料の束を手に、容赦なく切り出す。
「この短期間に、D型とL型の代謝系が融合するというのは、生物学的に破綻しています。ファージが仲介しているにしても、ここまで高速に形質転換が進むなんて……あり得ない。」
「確かに想定外よ、常識的には。」リン・マルグリスが応じる。「しかし、いま目の前で起きている。この深海で眠っていた右利き生命が、ファージとともに鏡像バリアを破っているんです。」
「もし自然に起こっているなら、もっと時間をかけるはずだわ。私は誰かの意図、あるいは古代の仕掛けが隠されている可能性を疑っている。」
アナベルの言葉には棘があった。「いずれにせよ、人間にまで感染が及ぶ前に手を打たなければ取り返しがつかない。」
ヘンリエッタが険しい表情で反論しかけるが、ウィルがそれを制した。「アナベルの警鐘は重く受け止める。ここで黙って事態を見過ごせば、世界的パニックは避けられない。」
熱水噴出口に迫る危機
一方、深海カメラは前例のない異常を捉えていた。熱水噴出口から溢れる硫化物や金属イオンの濃度が急上昇し、微生物たちの活動域が爆発的に広がり出したのだ。その中心部には、例の“結晶ファージ”が巨大な柱のようにそびえており、右利き生命を束ねる拠点と化している。
「結晶ファージ群が、まるで“神殿”みたいに見える……。」
オットーが呻くように言った。「以前は小さなコロニーが点在していただけなのに、あれほど大きな塊を形成するとは……」
「これが単なる自然の産物とは思えない。」アナベルは資料をめくりつつ睨め付ける。「人工的なデザインを感じさせる構造だし、遺伝子配列も妙に規則的。誰か――あるいは何かの意志が存在するかもしれない。」
「それを証明するには、もっと近づいて直接サンプルを採取するしかないわ。」ヘンリエッタが思いきった提案をする。「でも、この状態で潜水艇を派遣したら、乗組員がD型分子に曝露されるリスクが跳ね上がる……」
「検討しましょう。」ウィルは苦い顔で言いながらも、すぐに決断を下せない。「ファージを放置すれば、左利き生命との融合がより進み、陸への波及を防げなくなる。行動を起こすなら今かもしれない。」
対立する見解
会議室では、リンとアナベルの論争が続いていた。
「私としては、立体化学の壁を越える共生こそが、生命進化の新しい形だと思います。鏡像異性体の問題を解決できれば、オートファージの暴走も制御可能になるかもしれない。」
リンが熱っぽく語る。
「あなたの理想は理解するけど、現実にクルーが感染リスクに晒されているのよ?」アナベルは譲らない。「暴走のメカニズムを理解する前に“自然にやらせてみる”なんて、あまりに危険すぎるわ。」
「だからこそ私たちが観測し、データを取り、必要なら制御策を考えるべきでしょう?」ヘンリエッタも加勢する。「何もかも封じ込めるだけじゃ、事態は解決しない。」
ウィルは論争を中断させるように手を挙げた。「いいか、急を要する。深海の発光は一層強まり、海底の環境も不安定になっている。艦内が感染リスクを抱え、地上も巻き込まれる恐れがある以上、私たちが後手に回る猶予はほとんどない。」
不可解な発光サイン
そこへ、新たなアラートが制御室に響き渡る。カメラがとらえた発光パターンが突然変化し、大きな「円環状」の波を作り出しているのだ。
「これは……周期が二重に折り重なってる?」オットーが解析ツールを走らせる。「何か強調したい意味があるんじゃないか?」
ヘンリエッタが凝視する先、画面には渦巻きの中心部で結晶ファージが光を放ち、右利き生命と左利き生命の混合体がその周囲に集結していくように映る。まるで深海が彼らを導いているようだ。
「呼んでるのかも……私たち人類をね。」リンの声音は興奮と恐れが半々だ。「このサインが“来い”と言っているように思えるわ。」
「来い、って……まさか。」アナベルは顔をしかめる。「自分から近づいたら、無事ではいられないかもしれないのに。」
「そうかもしれない。」ヘンリエッタが決意を含んだ瞳を向ける。「でも、このまま何もしないで見過ごせば、取り返しのつかない事態になる可能性もある。彼らがもし助けを求めているなら、応じるしかない。」
ウィルは大きく息を吐き、「データのさらなる解析と、潜水艇チームの編成だ。最終判断を下す前に、できる限りの準備をする。」と告げる。
クルーたちはそれぞれ作業に散っていくが、その表情には迷いや不安が色濃く残っている。
次なる一歩へ
夜に近づくほどに深海からの発光は増す一方で、オートファージ異常を恐れるクルーたちの心はざわめいていた。左利き生命の世界に突然現れた“右利き”の進化が巻き起こす激流は、何をも巻き込み、次なる境界を超えてしまうのか。
「結局、私たちはもう逃げられない。」ヘンリエッタは制御室の窓辺から暗い海を見つめ、そう呟いた。「時差進化の扉が開かれた今、学者としても人類としても、向き合うしかないのね。」
奇妙なファージに導かれた深海は、より激しい光のパルスを打ち、遠く船上までも明滅を感じさせている。
そこには希望か、それとも破滅か――誰もがまだ答えを見出せない。しかし、次の行動が、この地球の未来を大きく左右する。
「学者の警鐘」は鳴り響き、船内にも外界にも波紋を投げかけていた。次なる決断が迫る中、彼らは深海の招待にどう応じるかを問われている。