聖水少女8


カクヨム




 放課後。香織は逃げるようにして校舎を出た。下校する生徒にぶつかるのを省みず廊下を駆け抜たために服には不自然な皺や埃が目立ちはしたなかったが、それ以上に赤く変色した目元が痛ましかった。妙な事を考え取り乱し笑われたのが辛く、塞ぎ込めばそれだけ疎外感が生まれ、苦しいのだ。
 客観的に見れば盛大な一人相撲に他ならず、香織の迷走といえるだろう。だが考えてみれば彼女は思春期。多感を患った若者であれば少々過敏な反応を示すのは当然といえるのではないだろうか。些細なでき事に傷付き悩むのも十代の特権。歳を取れば悩みでさえ抑圧されてしまう世の中である。であれば、この瞬間は存分に悲嘆するのが最善であろう。不可逆なる時の中庭で感情の不安定さは貴重な経験となり得るのだから。

 浮かれたり沈んだり馬鹿みたい。

 聡明な彼女は一連のセンチメンタルが自己の精神薄弱に起因しているのを承知しているが、そのうえでなお世を儚むのは恋の炎が消えていないからである。天花さえいなければ香織がこうまで焦燥するような事態とはならなかったであろう。しかしその不均衡を誰が否定できようか。一人の少女の心に咲いた、一輪の美しき愛の花をいったい誰が摘めようか。恋愛というのは理屈ではない。感情により生まれる理不尽である。それを制御できる人間などいるはずがない。
 ぼろぼろになりながら帰宅した香織は確かに痛ましかったが、それ以上に、儚く、美しかった。恋に悩む乙女の美は古来より万国に共通する美の一つである。

 もし椿さんが私の破廉恥を知ってしまったら、きっと嫌われてしまう。

 涙を拭う香織は中庭の松の下で下着をめくり半裸となっていた。言わずもがないつもの悪癖の最中である。黄昏過ぎに白い生足と土手に茂る薄黒い羊歯しだ。そして放物線を描く黄金水がにわかに名画の気配を感じさせ、人が観れば背徳的な美に酔いしれる事ができるだろう素晴らしき画図であるが、香織本人は心底から落ち込み、尿が香り初めてもなお顔を青く染めている。それは彼女にとって、虫歯で美食を噛むようなもどかしさを覚えるのだった。

 椿さんは、私をどう思っているのかしら。

 解の出ない問を自らに投げる。それが不毛であると分かっていながら、香織は自傷のように自問を続けて、その日を終えた。

 翌朝は雨だった。
 休みにかまけ昼頃まで寝ているつもりが雨音で目を覚ます香織。起き上がろうにも活力湧かず、布団を畳む気にもなれない。何もできずに時間だけが過ぎていく。
 普段ならば起きたそばから動き出し、食事の後に出かけたり本を読んだりするのだが今日はとても無理なようで、呆けた顔をしてただ壁の染みを見ているだけである。昨日から一転した気分の下落は体調にまで影響を及ぼし、微熱が頭痛を併発させている。目を閉じても火照った身体と朦朧とした意識が潜在する理想郷イーハトーブを腐らせていく悪夢を見せ起こしてくるのだから寝る事もできず、香織はすっかりとまいってしまっていたのであった。
 その彼女の理想郷は長閑のどかな村落であり、春夏秋冬のわびさびに興ぜられる風光明媚な一画であった。川の水は空き通り、そこに粗相を働くのが彼女の喜びで、排出された尿はにわかに香りながら下流へと向かい、人や動物。植物が香織の尿を取り込むのを夢想するのだ。

 人目はばからずおしっこをしたらどれだけ素敵だろう。

 香織はいつも夢見ながらそんな事を思うのだった。彼女の理想郷は、彼女の秘事の解放により成り立っていた。

 だが今は違う。住まわせた覚えのない村の人々が、木陰や往来。至る所から香織を監視し、指をさしてクスクスと笑うのである。

「やぁね。はしたない」

「破廉恥」

「汚いわ。よしてちょうだい」

 罵詈雑言が香織の心象に響く。極め付けは……

「本当のあなたを知った椿さんはなんて思うかしらね」

「やめて!」

 雨音を切り裂くように絶叫がこだまする。
 物の少ない部屋が香織の声で満たされ、一寸の間を起き、再度水粒が大地に落ちて割れる音が流れてきた。

「やめてよぉ……」

 なす術なく泣きじゃくる。かつてこれほどまで彼女が滴を溢れさせた事はない。些細な失態と悲観が重なり、深淵の覗く亀裂が香織の心に生じてしまったのだ。

 どうして私は他人と違うんだろう。

 今更ながら、当たり前の疑問が浮かんだ。実際、香織は他者との違い、明確にいえば、尿の芳香について深く考えた事がなく、ただ「私のおしっこはいい匂いがするわ」と浮かれているばかりであった。本来は忌避すべき、排出される汚物に対して、その芳潤により共感されるべき根本的意識が欠落してしまっていたのだ。
 その欠落が今、香織の自我を揺るがしている。自らに生まれた淫猥は不可思議なる尿に起因すると疑わず、他者との差がふしだらな妄想を掻き立てるのだという滅裂な思想に狂っていた。

 私なんて、つまらない人間じゃない。

 暗澹が卑屈を引き込み始めた。香織は布団に潜りシーツを涙で濡らしながら天花を想った。手を伸ばしても届かない、限りなく遠く遙かな存在は慰めるどころかより深く、香織を嘆かせ笑うのだった。それは山茶花堂で彼女に向けられた笑顔であり、また、胸に穴を開ける残酷であった。

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