公募号『ODD ZINE vol. 9』に参加いただいた板垣真任さんによる掲載作すべての感想
このたびは「ODD ZINE vol. 9」に参加させてもらい、誠にありがとうございました。
ツイッターのアカウントはあるのですが、完全に見る専なので、主宰の太田さんに以下の感想を委ねることにします。
文字数の制約がないので、できるだけ題名や本文から言葉を引用することで作品を語ろうと思います。
ちなみに、適当にめくったページからぐるっと一周という形で感想を始めています。
「あの日見た熊の名前を彼等はまだ知らない」
人物の登場のさせ方と漢字のひらきを工夫するとよりリーダブルになると思います。
もう少し練った文章で、ぜひ、一昔前の邦楽ロックの追憶と現代の若者の青春話が交錯したものを読みたいです。
「ズボンズ」とはまた、懐かしいです。
「あたしの世界」
「あたし」の目の前に「図体も鼻も大きい生き物」や「鋭い角」を持つ生き物が現れます。
しかし、「小さい生き物」はそれ以上特徴付けられることなく描かれます。
そこで「あたしの世界」に少しおじゃまして妄想することにしました。
きっと、「あたし」は「小さい生き物」のかわいい靴やぷよっとした足首を見ているのでしょう。
「小鳥」
「一年遅れの成人」とは何かなと思いましたが、詩全体に「もう〜なのですよ」という遅延の感覚が流れています。
「夏の迷い家」
「こんな風に寝込んでしまう」という句は、「こんな」の内容がある程度説明されてから書かれても良かったかもしれません。
余計な負荷がかかっていない文章に好感を持ちました。
だからこそ、固有名詞を用いなかったほうが雰囲気が増したかもしれません。
「迷い」の話であるのに、名前のついている存在たちがとても安定しているように感じたからです。
「サモエドストア」
「なんだか昔話みたいな風景だ」が好きです。2ページ目下段の、語りのトーンの転換も嫌いじゃないです。
偶然に、種類は異なるかもしれませんが、どちらも「昔話」に関することでした。 だから、最後の声も、(こうまとめたら作品の魅力が削がれるのかもしれませんが)語り手に流れてきた記憶の声であると読みました。
むしろ、生き物の声じゃないのかもね。リードを振るうときに風と混ざって鳴るような記憶。
「早送りの愛」
自由で例外的な、短歌的な連なりのように見えます。
しかし、例外のない小さな命の終わりとその後までが書かれています。
これは、「早送り」には感じませんでした。
もちろんこれは好意的な感想です。
「カピパラネバーノウズ 千葉編」
娘は「カピパラさん」のぬいぐるみが好きで、娘は「さん」を抜いて「かぴぱら」と呼び、 それがひらがなで書かれているからには、それが娘の声に出されたときには娘だけのトーンがあるということだ。
そしてこの関係性にはひとまず実物のカピパラという動物は含まれていない。
三段落目から、言葉が現実を指すかどうかという短いエピソードが語られます。
熟れた読み手によっては「話の型」として既視感を覚えるかもしれない生活の一幕ですが、 「娘」たちがこういうものを読み返したときにきっと特別なものが心に起こる。
これは掲載された作品の中でも、無意識に誰かに宛てられた文章だなと思わされました。
「やさしい動物」
夫の不機嫌なトーンの持続で読ませるのかと思いきや、終盤で転換します。
最後の段落を一読し、なんだかこれは「すごい」かもと思いました。
なんだかいい意味で感想の書きづらい作品で、ちょっと異物のように感じる句や節があって、 それも二人の散歩道の小石のようかもしれません。
「懐かしいあのくねくねの件」
なぜ「HEBI」なのか。この表記とノリはなんなのだ。
わかしょ文庫さんの感想に同じく、次の行に何が書かれるかわからない作品でした。
「オルカプラザで待ち合わせ」
「十八種類」のペンギンがいて、店のオルカは実は「二頭」で、この文章には三個くらいの小説が入っているように読みました。
そんな、素敵な読み味です。
添えられたジョウロの画には穴が14個、マカロニは穴が2つあります。
「スーパーサイエンススクール」
流し読みの時点で「「テレパシー」という作品にだけ「倫理」という言葉が出てくるんだな」と考えたのですが、 この「スーパーサイエンス」な学校で、少し肩身の狭いかもしれない「倫理」の先生が出てきます。
先生も苦労しているんだと思う。苦労と「恥」は表裏一体だから。
「本校」という語り手は「スーパーサイエンススクール」の科学実験による発明ですね。
「光る」
タイトルが一番好きです。展示に行く前は、「光る」のはなにだろう?という点をぼかしながら、 不思議に魅力あるものを描こうとするタイプの作品なのかな、と勝手に予想していました。
しかしその予想は大外れで、作品の中で「光る」ものははっきりと提示され、そのナイスなイラストまで載っています。
「なんだか曖昧で凄いものを常に作らなきゃいけない」、みたいな三流作家的な自意識が壊れて、 今回の作品群に心がぐっと接近するきっかけになった文章でした。
田舎では「中高年もよく光っている」とのことでしたが、陽が短い季節の、下校中のランドセルなんかもどうでしょう?
いいと思った文や流れがいくつもありましたが、たとえば時間についての情報が丁寧に書かれているところが好きです。
「唯物と動物と 。」
プロフィールに「「書くひと」となってしまう」とあります。
私は、「書かないひと」も、読むひとである限り、常に既に書くひとであると思う。
言葉を押し付けられた存在としての、長谷川さんのヴォイス・トレーニングの一つとしてこの詩を読みました。
「否というように」「ニャー」という声がある。 それが「言語のように聴こえる」ということは二重の「ように」がある。この複雑さが今回の訓練の成果だと思う。
私の訓練でもあります。
「猫は気体」
タイトルに反して液体のモチーフが多用されていたように読みました。
(「ミネラルウォーター」「冷房(冷気というかその露)」「缶ビール」「雨」「増水した川」「揺らぐ水面」)
つまり液体が気体になるのはたやすく、切れ目がなく、液体にはいつも気体への予感があり、 気体にはいつも液体の残りがあり、そうしたイメージに動物の生き死にが重ねられる。 ・・・というようにまとめたら、物語でその命をなくした猫に失礼な気もしてくる。
猫との思い出やどんな猫だったかがほとんど描かれないことが、良いところなのか悪いところなのかわからない。
「池の鴨」
「キンメの煮付け」や「地方豪族の個人墓地」といったフレーズがあと4つほどほしかった。
「凍ってしまった、喰った」という文があって、「しかし食べた」などと書かないところが面白いかも。
「カメレオン」
よくある恋愛話のようにも読めるが、「目」や「見ること」という一貫したモチーフがある。
最後の段落に「夏に始まった恋が、熱を失っていくのをカオルはなすすべもなく見つめていた」とあります。
「痛感していた」などではなく「見つめていた」なんですよね。
紋切り型の流れも多かったのですが、私はここに小説の余白を見つけました。
「えんめー」
ここまで読んで気づいたのですが、今回の作品群には「檻」という言葉が繰り返し出てきます。
「おり」「オリ」はあったかなあ。だいたいが漢字でした。
この作品で語り手は垂直方向にのぼるという運動をします。
檻のなかにいる生き物と比べて、そとにいる生き物にはそれが許されるんだよなあ、などと考えたり。
「生きている時間の動き」
「どちらかといえば植物を「モノ」として扱った奥さんの側の人間」である語り手は、 最後に鉢植えを持った奥さんを「中華鍋を握るように別の鉢を持ち」と語ります。
この直喩は好きです。
でも鉢植えが空じゃなくてそこに植物が残っていたとしたら、一瞬だけ「おじ(い)さん」側に移って喋っても良かったかも? 語り手はここで、あくまでそういう「奥さん」を示したかったかもしれないわけで、難しいですね。
「私と、《特》と。」
「私は(・・・・・)」といった書き方をするとき、 「私は(・・・・・)と心の中で思った」というように書くことが多いと思います。
この作品では1ページ目に3箇所まるカッコが出てきて、 1つ目は「・・・)って言おうかと一瞬思いました」、3つ目は「・・・)ってぼんやり思って」 と書かれています。しかし2つ目は 「・・・)て突然ジイが胸の中で言いました」と書かれています。この時点では筆者の小説への慣れとしか思いませんでした。
しかし2ページ目ではこの「胸」という言葉が大事なところで二回出てくるのです。 それに気づいたとき、「動物」をテーマとしたこの作品集は、この「私」の「胸」の中で起こることで終わるんだと思って沁み入りました。筆者と主宰の構成力に大拍手です。
2ページ目最後のまるカッコは、もっとも基本的な「)て心の中で言いながら」という形で締められます。
しかしこのとき二つ目の発見。私の胸で起こることには必ず他者の到来がある。というか1ページ2つ目のまるカッコってぜんぜん他のものと意味が違う。
どれくらい意識的な区別なのかわかりませんが、私はこのようにこの作品を胸に収めることとします。
「命名」
「私」の「胸」の中で終わる作品集は、 「身を捩ってなんとか円の内側に収まろうとしている」誰かの名前の様子から始まります。 この作品は、完璧な第一段落や、下段の「しばらく〜」「長さが〜」「と、気づいた〜」の三つの段落に展開される「コンソメ」の発声練習に心が動くひとが多いかと思われます。もちろん私もそうです。
しかしそれらの段落を抜けたあとの二行しかない段落への転換も素晴らしいと思う。
もちろん技巧的な観点(だけ)ではありません。
「ねこにひき」
正直に告白しますと、作品集の冒頭にもどったこの辺りでちょっと息切れしてしまいました。
それで初読時は、まあよくある話かな?と思ってしまったのですが、もう一度一段落目を読んでみたら、 「古びた床屋」という表現を(良くも悪くも)不思議だなと感じ、 もう営業していない床屋のブラインド下の隙間から見える猫たちの様子を描いたのだと確認しました。
営業している床屋さんにいる猫の話だと読んだので、かなりひどい誤読です。
シャッター街生まれの私としては、閉店してしまった店の窓の向こうってすごく魅力的で重要だと思います。
したがってこの文章にも再読時にすぐさまいくつかの魅力を感じることができました。
猫がそこから出てくるのもいい。
「馬」
「きみ」の詩で、「私」はおらず、「私たち」がいる。「きみ」と「私」の詩じゃないところが良かった。
「馬にでも出来ることはあるのか / きみは間に合わない」という二行がかなり好きです。
「ナマケモノでも出来ることはあるのか」とかだったらありがちですけど、馬の詩です。
馬ってけっこう強くて頼もしい気がするんですが、この詩の馬はなかなか大変そうだ。
「ココ」
「ネパールの人もペットを飼う」という一文から始まっています。
(まあ、そりゃどこでも飼うんじゃないのか?)と思ってしまいました。
そこで私のような失礼で阿呆な読み手のために、1ページ目下段の真ん中あたりで筆者は具体的にこの一文を膨らませていきます。
ネパールにも日本にもペットとしての犬はいるのだが、「しつけの仕方や、日常の接し方など」は異なる。
2ページ目の最後の段落では「今でもよく覚えていて、」という句が出てきます。 「ネパールの人も」の「も」は水平的なこの世界における認識に依拠する事柄ですが、 それがココという犬という具体的な経験となって筆者の垂直的な記憶に登録され、 「今でも」の「も」という個人に流れる時間の事柄に反転します。胸に残る文章を読みました。
「テレパシー」
私は「倫理」という言葉を外国語で考えるほうが好きで、それはたとえば responsibility for X のことではないかと思います。
この単語にはresponseという言葉が含まれていて、つまり誰かからの応答 / 誰かへの応答 を指します。
「伝わんじゃねぇぞと爪と牙を立てたような書きかた」でも、そのうち誰かからレスポンスがくるかもしれない。
そのときにこの文章に出てくる「私」の「倫理」にも新しいものが付け足されるのかなあ、などと考えたり。
もちろん、これも簡潔ではありますが、私のresponseです。
「館の犬」
久しぶりに小説を書いて、いろんな人に読んでもらいました。
本当にありがとうございます。
「どうぶつを思う」
「いちばん近いのは姉の家のニャンズ」「もう一度乗りたいのはタイにいたゾウ」という二行が好きです。
理由はここだけリアリズムだから。「思う」詩でも、言葉は現実を求める。
「ガゼル」
紙面のレイアウト、文章の構成、フォント、そしてひらがなのバランスがいちばん丁寧で繊細だと思いました。
だからこそ、この一枚の前半と後半に出てくる「列車遅延」と「振替輸送」という四字熟語がすごく活きる。
現実の停滞に挟まれる形で、ガゼルとライオンの動的な場面が描かれます。
これは文学賞の選評にありがちなダメ出しではなく、 ガゼルとしての自分を断念した向こうに、本当の物語がありそうだと思いました。
ただし走る自分がなんであるか明記はされていませんね。ちょっと私は先走りかも。
「よく走る」
短い文章ですが、「渋谷」という具体性が早めにポロッとでてくるところがいいと思いました。
私事ですが、「せつない」という言葉の使い方について周囲に違和感をいだかれたことを思い出しました。
私はこれを読んで、身体における「面積」への尊重(自分にも、他人にも)、という視点を得ました。
その言葉は使われていませんが、この文章もまた倫理と薄く濃く関わっているということは、読み手誰もが感じるところだと思います。そういう括り方は嫌がられるかもしれませんが。
「走る」という行為は、時として「面積」への尊重を犠牲にしてしまうこともあるのかなぁ、と考えたり…。
私も今後は自分なりに理論を構築してみます。こんな収穫があるとは思わなかった。
「鳩の気持ち」
鳩の気持ちが書いてあります。ジャンルが異なりますが、「光る」と似たものを受け取りました。
鳩は自分のことをちゃんと漢字で書くんですね。
私は文学における鳩という漢字一文字といえば、大江健三郎の短編を思い出すのですが、 この鳩がそれを読んだら豆鉄砲くらってしまいますね。
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