30年目の津軽海峡冬景色
いつも行く立ち飲みのビアバーで時々会う知り合いにこんな話を聴いた。
27歳の時彼は2年付き合った彼女と別れた。
別れる半年前にしばらく会わない方がいいと言われて会っていなかったから実際には1年半くらいしか付き合っていないのかも知れない。
別れてすぐ彼女は友達の紹介で外国人と結婚し、まもなく2人の子どもを産んだ。
その当時携帯電話は、一部の会社で社用電話として販売されたばかり。30年後にはだれでもが携帯電話を持ち、インターネットに繋がり、動画で話せて云々というのはSF小説の世界にしか思えなかった。
彼も彼女の実家暮らしで連絡手段は、実家に電話をかけるか職場に電話するしかない。
彼女はしばし待ち合わせに遅れ彼はひたすら待ち、1時間半待ってまだ来ないから実家に電話したら、まだ支度をしていたこともあった。
表参道から原宿に向かって歩いていて、いつも以上に機嫌の悪い彼女が、人混みの中でどんどん先に行ってしまい見失ったこともある。そんな時携帯電話がないからどうにもならない。
駅には伝言板という黒板があり、待ち合わせに失敗した人が伝言を残すシステムがこの頃あった。
駅に電話して館内放送で呼び出してもらうこともできた。
彼女は何も残さず先に行ってしまったので、彼は途方に暮れて実家へ帰った。
夜になって彼女からゴメンと電話があった。
彼女の母は2人が付き合う半年前に癌で亡くなった。
彼女は以来好きなことを遠慮せずにしようと、OLの傍らボーカルレッスンに通っていた。
歌うことが好きで歌っている間は母を失った事実から遠くにいられたからだ。
当時、幸いにもカラオケも、
カラオケボックスも存在していたので、飲んだあとに2人でカラオケに行った。
モデルのようにすらっとしてベリーショートヘアで、リーバイスを着こなす彼女が、
「これが得意なの」
と選んだのは意外にも津軽海峡冬景色であった。
有楽町駅に近いカラオケボックスの一部屋に、日本海の厳しい雪景色を彼は見た。
その後彼は何人も女性と付き合い、何人かとカラオケに行ったが、彼女のように圧倒的な声量とつき突き刺さる波のような音色で歌う人はいなかったし、津軽海峡冬景色も石川さゆりも歌う人はいなかった。
10年ほど前Facebookに触れた時彼が最初にしたのは昔の同級生と、かつての元カノたちの検索だった。
とくに彼女のように携帯電話がない時代の元カノは、連絡先登録していないので、
「知り合いではないですか?」
と上がってくることもない。
何人かはFacebook上に存在し何人かは存在していなかった。
彼女は外国人と結婚したので名字に特徴がありすぐにわかった。
彼女は夫婦でパン屋を営んでいた。
夫となった人は外資系ホテルのパン職人であったから独立したのであろう。
数年経ってパン屋を彼は夫婦で訪ねた。
お互いの相方を紹介しパンを沢山買って帰った。
あの頃より少しふっくらした彼女がいた。
あの頃よりかなり髪が後退した彼がいた。
その後彼女の子どもたちも成人し、お店は畳み夫はホテルのパン職人に戻った。
彼はFacebookの友達として、彼女の年に数回の投稿を眺めていた。
別れて30年になった年に、彼はスマホのFacebookアプリで彼女と昼間待ち合わせて飲みに行った。
彼は58歳、彼女は57歳になっていた。
その日は二軒目まで飲み、LINE交換した。QRコードがよくわからないと言う彼女のスマホを手に取り、友だち追加を手伝った。
三ヶ月後、再会した時は三軒ハシゴし、四軒目でカラオケしたいと彼女が言った。
いいね、行こうと彼が同意し、
社会の多くが発展してもそこだけはほとんどシステムの変わらないカラオケボックスに行った。
彼女が何曲か気持ちよく歌ったあと、彼があの曲をリクエストした。
あの頃のようにうまく歌えないけどと言い訳しながらも、彼女はリクエストに応えてくれた。
「ワタシあの頃うまかったよね」と遠い目をして、津軽海峡冬景色を歌ってくれた。
たしかにあの頃のような声量や突き刺さるような音色は薄れていたが彼は満足だった。大満足だ。
お互いそれぞれの人生があり、これから何かが始まるわけではない。
たまに会ってお互いの愚痴を聴きながら飲む。
それだけの関係だ。
それでも彼は、人生が救われた気がしたとビールを煽り、ビアバーの知り合いに過ぎない私に涙をこぼしてみせるのだった。