第5走者 稲員修平「コミュニケーションにおける、メタ・メッセージの重要性」
第五走者の稲員(いなかず)です。川谷医院で公認心理師・臨床心理士として働いています。これまでの先生たちの話とつながる部分とつながらない部分の両方があるかもしれませんが、私が最近関心を持っていることについてまとめてみたいと思います。
グレゴリー・ベイトソンという文化人類学で有名な先生がいました。1904 年 7 月にイギリスで生まれて、第二次世界大戦中にアメリカに渡り、1980 年7月に亡くなっています。詳しい経歴はウィキペディアで調べてもらうとおおまかに分かると思います。このベイトソン先生は、サイバネティックスという考え方や論理階型理論という考え方に基づいて、人のコミュニケーションのとり方や文化や環境と人との関係などについて、そこに現れている全体的で調和的なシステムという視点から考えていきました。
また、精神とは個人の中に固定されて存在しているのではなくて、ある1つのまとまりと調和をもったシステムの中に存在しているのだと考えました。その考え方でいくと、例えばエアコンには室内の温度を計測して、設定温度より高くなったら風量を弱めて、設定温度より低くなったら風量を強めるというシステムがあると思います。ベイトソンの考えでは、このシステムの中の温度を計測してそして風量を調節するという部分に、そのシステムにおける精神性が存在しているということになります。ただし、ここでの精神はその循環的なサイクルの中でのみ当てはまるものですので、そのエアコンシステムの精神が家の防犯とか掃除とかについてまで考えたりするとかいうようなことはないわけです。あくまで温度調節というシステムに内在しているという考えになります。同じように、人については、脳内のある神経回路のサーキット(循環)システムに精神性があるとも言えますし、脳と身体のネットワークに精神性があるとか、人と人とのある一定の関係のシステムに精神性があるとか、人と環境とが織りなすネットワークやシステムに精神性があるとか考えられます。そして、そのネットワークやシステムの中で伝えられていくものは、「観念」であるとしています。ベイトソンの定義では、「観念」の単位とは「1つの差異(ちがい)を生み出す差異(ちがい)」であり、情報の1ユニット(1つ)であるとされています。
川谷先生のエッセイではスピノザのイマギナチオについて書かれていましたが、それと同様のものだと言えると思います。そして、この「観念」が人のコミュニケーションや人間関係において大切な役割を果たしているし、時には心理的な悩みの源泉にもなると考えられます。
ちなみに、サイバネティックスとは、アメリカの数学者ノーバート・ウィナーが考えたもので、現代のサイバー空間という言葉の語源にもなっているそうです。サイバネティックスとは、ギリシア語で船の「舵手」(舵取り手)を意味する言葉です。私たち(あるいは何らかの機械)が、周りの情報を受け取って、それについて認識して行動し、その結果を受け取ってまた考えていくというような、一連の循環的なシステムについて考える考え方(学問)のことをサイバネティックスというようです。
また論理階型理論とは、イギリスの哲学者や論理学者であったバートランド・ラッセルという人が考えたもので、とても簡潔に言うと、いくつかのメンバー(要素)がいて、そのメンバーの集合体(これを「クラス」と言います)があったとすると、その「メンバー」の中には「クラス」は含まれないというものです。たとえば、“ハワイコナ”、“グァテマラ”、“ブラジル”、“コスタリカ”、“エチオピア”などのメンバーがあったとします。お好きな人は気づいたかもしれませんが、これはコーヒー豆の種類です。コーヒー豆は産地によって種類分けされて販売されています。ここで、このそれぞれの産地による名称(品物名)が「メンバー」となり、「コーヒー」というものが「クラス(各コーヒー豆の集合体を表す水準)」となります。あるいは、“ダージリン”、“セイロン”、“アールグレイ”、などでは「紅茶」という「クラス」になって、それぞれの品種がメンバーとなるわけです。あるいは“ピカチュウ”や“ギャラドス”や“ミュウ”などは「ポケモン」というクラスのメンバーであるとも言えます。ここで、この「コーヒー」や「紅茶」や「ポケモン」というクラスそのものが、それぞれの「メンバー」の中には入れられない、入れてしまうと矛盾が生じるというのが論理階型理論になります。ところが、論理学の世界ではそれが成り立つのかもしれませんが、人のコミュニケーションの世界ではこのような論理水準の規則が破られることがあるのだとベイトソンは述べています。そして、そこから色々な悩みや苦しみが出てくる場合もあるし、新しい創造性につながる場合もあるのだと述べています。そこに先ほどの「観念」も関わっているわけです。
そのことについて以下で説明していきます。
人の言葉でのコミュニケーション、あるいはメッセージには、文字通りの意味を土台にして、そこから2つの性質の異なる、抽象水準が1つ上の段階のメッセージが暗黙に存在しているとベイトソンは言います。そのうち1つはメタ言語的メッセージであり、もう1つはメタ・コミュニケーション的メッセージです。例を挙げて説明します。例えば、鬼滅の刃で上弦の参の鬼である猗窩座(あかざ)が、鬼殺隊の炎柱である煉獄杏寿郎(れんごく きょうじゅろう)に言った「お前も鬼になれ、杏寿郎」というセリフで考えてみましょう。この時、文字通りの意味としては、杏寿郎に“鬼になりなさい”と言っているわけですが、メタ・言語的なメッセージでは、“鬼”とは“不死の肉体を持っていて、年を取らず、人間ではない存在である”というような、その“鬼”ということを説明するような言語的メッセージ(これをメタ・言語的と言います)がそこに含まれています。そして、「お前も鬼になれ、杏寿郎」というセリフには、例えば言外の意味(はっきりと言葉にはされていないけど、このセリフにこめられているだろう意味として)、“俺はお前が好きになった”とか“お前のことを認めたんだ”とか“お前が鬼になってくれたら俺も嬉しいんだ”というような、猗窩座(あかざ)の価値観からすると好意的なメッセージが暗に込められています。これをメタ・コミュニケーション的メッセージといいます。どちらも、私たちが日常生活の中で体験しているものですので、みなさんも探してもらうと思い当たるものがいくつか出てくるのではないかと思います。ちなみに、この時に煉獄杏寿郎は「断る」「俺は俺の責務を全うする」と返事をしていますが、例えば“責務”には“鬼殺隊隊長としての鬼を退治する役割”とか“正義を遂行する意思と責任”といったメタ・言語的メッセージがありますし、セリフ全体では“猗窩座(あかざ)の価値観とは相いれない”とか“鬼殺隊や人間はそんなことでは喜ばないんだ”といったようなメタ・メッセージが込められていると考えられます。岩永先生のエッセイの中の「鬼は内、福は内」の理由もメタ・メッセージとも言えますね。ここで、各メッセージについて、それぞれ別個の1つの「観念」たちであると言いかえることもできます。
さて、このやりとりではどちらも自分の思ったことを言葉にしていて、かつ言いたいことをストレートに表現していますから、コミュニケーションとしてのずれは生じていません(意見の合意には至っていませんが、それはお互いに反対だという主張をストレートにやりとりしあえていると言えます。そし
て言っている内容と、それを表している時の言い方や表情、態度の間に一致があります)。一方で、この言葉による表現と、それを修飾するメタ・コミュニケーション的メッセージの間に矛盾が生じると、それによって人は悩んだり、苦しんだり、あるいは創造的になったりするということがあるのだとベイトソンは考えました。それを専門的にはダブルバインド理論としてまとめているのですが、ここではその理論には深く立ち入らないことにします(また別の機会に説明したいと思います)。
日常生活に近いところで考えてみましょう。第四走者の渡邉先生のエッセイの中に SNS でのコミュニケーションのことが書かれていました。SNS(LINE やインスタグラムなど)では、主に文字でのやりとりが多いのではないかと思います。動画などを載せている場合でも、動画を撮影してそれを載せた側の
人たちからの一方通行の内容になると思います。文字でのやりとりを考えると、そこには文字でのメッセージを送った側の人のその時の表情や声色や話し方の様子などのメタ・メッセージは付属してきていません(存在していません)。絵文字などでそのようなメタ・メッセージの雰囲気を補おうとする場合もありますが、これにも限界があると思います。そうすると、メッセージを受け取った側の人は、ベイトソンの言うメタ・言語的メッセージと字義通りの意味との2つを使ってその内容を理解することになります。平たく言えば、文章の内容を文字通りに受け取るということですね。ただ、ここにその人の持っている様々な「観念」(英語で言うと idea(アイデア)、スピノザの言葉では「イマギナチオ」)が間に入ってきます。メッセージを受け取った人は、その文字通りの意味を受け取る時に、その人の持っている「観念」
のフィルター(観念のメガネ)を通してそれを読んで理解するということですね。そのため、そこでメッセージの送り手と受け手との間に意図のずれや齟齬が生じやすくなります。これまでの関係の中で安心感や好意を抱いている人からのメッセージであれば、内容も好意的に受け取るかもしれませんし、反対に嫌悪感や敵意を抱いている人からのメッセージであれば、文章の文字通りの意味はていねいだったり優しかったりしても、それを「冷たい」メッセージだと受け取ったりするかもしれません。また、これがグループでのやりとりになると、さまざまな人の「観念」が組み合わさったり、絡み合ったりしてより複雑になったり、より意図のずれが生じやすくなったりする可能性があると思います。昔から、大事なことは直接会って話した方がいいと言われてきていますが、それはこのような理由からとも説明できますし、そんなことは皆さんも言われなくても分かっていると思われるかもしれません。ただ、IT 技術が発展しスマートフォンが莫大に普及している現代社会を見てみると、昔(平成や昭和の頃)とは家族や友人関係などにおける関わり方のシステムが違ってきているとも考えられます。そして、ベイトソンの考えを援
用すると、「人-スマホ-人」という関わりのシステムやネットワークが存在しており、このシステムの中でどのように学び、成長していくか、あるいはこのシステムの利点と弊害は何かということをあらためて振り返って考えてみる必要があるのではないかと思います。(ちなみに、システムやネットワークは1つではなく、大小さまざまなものが、さまざまに存在しています)。
利点としては、「いつでも、どこでも、すぐに色々な情報にふれることができる」、「連絡したいと思った時に個人と個人で直接連絡をとれる」、「知らない人も含めて多くの人の意見を聞いたり、まとめたりすることができる」、といったものがあるでしょうか。考えると他にもいろいろあると思います。一方の弊害もいろいろあると思いますが、そのうちの1つには先ほど述べた「メタ・メッセージの不在」あるいは「メタ・メッセージのずれ」があると思います。それによって、メッセージの送り手と受け手との間でのコミュニケーションのずれや齟齬が生じることについては、先ほど述べました。もう1つ付け加えると、子どもたち(あるいは大人でも)の発達への影響があると思います。メタ・メッセージを感じとって理解することはコミュニケーションにおいて大切なことです。しかし、SNS のやりとりでは、そもそも
メタ・メッセージが存在していません。Zoom や LINE での動画での通話などならいいのではと思う人もいるでしょうが、ある研究によるとこの動画での通話もカメラの位置と相手の表情の画面(特に相手の目)とが一致していないので(つまり、視線が合わないので)、人の脳は相手の様子を“雑な電子紙芝居”
のように「とても奇妙な音声つき動画」と認識してしまうそうです。そのため、人との関わりの中で共感した時に発生する脳の同期(脳の活動がお互いにシンクロする)現象が発生しないそうです。しかも、オンラインコミュニケーションの会話をしている時の脳は、黙ってボーっとしている時の脳と同じ状態だったそうです。このことは、「メタ・メッセージのずれ」や「メタ・メッセージがあるようでない」という状態が存在しているとも考えられます。さらに、スマホ育児という言葉もありますが、養育者も子どももスマホを見て、せっかく同じ場にいるけどもそこでの会話がないという様子もあると思います。このような環境においては、相手のメタ・メッセージを読み取る脳の力の発達が停滞してしまう危険性があると考えられます。また、イギリスの精神科医で精神分析家のウィニコットという先生は、子どもの心の発達の重要なこととして「一人でいられる能力」というものを考えましたが、それは子どもを見つめ、関わり、コミュニケーションに応答する大人の関わりが積み重なることで、次第に子どもは1人でもすごせるようになる心の力ができてくるのだという考えです。しかし、「人-スマホ-人」という関わりのネ
ットワークやシステムの中では、(ネット空間やあるいはその場のリアル空間で)誰かと一緒にはいるけど、実はそこには情緒的にかみ合った応答性のあるやりとりがあまり存在していないという体験になっているのかもしれません。第二走者の杉本先生の話の中でもあったように、インターネットではその人の好みに合う情報のみが提供されやすくなっていることを加味して考えると、そこにある精神性としては自分とは反対の意見を聞きたくないという思いであったり、ますます周りの人からの承認を求めたり、不安になってそのネットワークから抜けられなくなったりするというものであり、それは違う意見の人と一緒にいられないという意味では「一人でしかいられない能力」というようなものを育ててしまっている危険性もあるとも言えるかもしれません。これはちょっと言いすぎかもしれませんし、私の勝手な「観念」でもあるかもしれません。また、ネット空間だからこそ人と関われるという子どもたちもいて、そのような利点もあることは分かっていますし、そうせざるを得なかった事情や苦しみがたくさんあったのだろうとも思います。ですので、インターネットの全てをやめるとか否定したいわけではありませ
んが、もしできそうな場合には1日 30 分だけでもスマホを置いて、誰かと一緒にすごしてみてはどうでしょうか?小さなお子さんであれば、絵本の読み聞かせをすると脳の同期が生じるそうです。大人同士や年齢が上がった子どもさんとの場合には、肩たたきやマッサージ、腕相撲など(このようなリアルな身体の接触を通した関わりは心理療法やカウンセリングでは提供していないものであり、親子や家族ならではの関わりだと思います)もあると思いますし、あるいはトランプやウノなどのカードゲームもいいかもしれません。または直接話してみるとか、あるいは話さなくてもなんとなく一緒にいてその場をすごすという時間を作ってみるのも大切ではないかと思います。
ややとりとめもなく、長い話になってしまいましたが、私のエッセイはひとまずここまでとします。
第六走者の先生にバトンをお渡しします。
参考文献
グレゴリー・ベイトソン著 佐藤良明訳 「精神の生態学」改訂第2版 新思索社
川島隆太著 「オンライン脳」 アスコム
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