第2章 詞辞論
第7節 「語の形式的接続と意味的接続」
「零記号」の構築と温泉と休息
時枝は1937年1月に「文の解釈上より見た助詞助動詞」を脱稿したのち、言語過程説の理論を初めて本格的に展開した論文「心的過程としての言語本質観」を同年2月に脱稿します。けれどもその後、時枝は次の論文がなかなか書けず、苦しみます。次の論文とは、用言に陳述があるように見える現象をどう扱うかという問題を含むところの、語の意味的接続に関する論、すなわち統語論に関する論文です(「語の形式的接続と意味的接続」【『国語と国文学』1937年8月】)。この論文は、時枝の有名な「零記号」論および「辞による総括機能」論の初出でもあります。
時枝の弟子の鈴木一彦による「時枝誠記伝」には、このあたりの様子について、次のような記述があります。
時枝はこうして、なかなか論文を書くことができず、九州旅行にて一か月ほど心身を休め、お湯に入り小説を読むなどしてリラックスして過ごし、そうしてその後に論文を書き始め、「心的過程としての言語本質観」を脱稿した1937年2月8日から三か月のちの1937年5月4日に「語の形式的接続と意味的接続」を脱稿します。この論文で時枝は、用言における陳述の問題を含む統語論について考察を深め、初めて「零記号」の考えかたを公表しています。----こうして見てくると、今では有名な「零記号」という概念を生みだすのに時枝が相当苦労していたことがうかがわれます。最初は「だめだ、書けない」となったのだと思われますが、それを開き直って旅行へ行ってインターバルをとり、お湯に入ったり好きな小説を読んだりとリフレッシュをして、危機を乗り越えたのではないかと思われます(いま論文で悩んでいる人びとの参考にもなるのではないでしょうか。人は考えて考えて考え抜いたあと、リラックスして休憩を入れると、新しい発想を思いついたりするのかもしれません)。
「統合関係」と「添加関係」
時枝は1937年5月に「語の形式的接続と意味的接続」を脱稿しますが、それから約2年後に脱稿した「言語に於ける単位と単語について」(1939年2月2日脱稿)において、次のように述べています。
つまり、時枝の構築した新しい詞辞論によって展望される新たな理論的な射程は、私が要約してみると、
① 「助詞助動詞」と接尾語との区別に関する問題
② 解釈へと結びつく合理的な文法論の構築
③ 敬語の本質の解明
④ 用字法の体系の整理
⑤ 文の本質の合理的な説明
となります。
――ここで扱う「語の形式的接続と意味的接続」は、上記の②「解釈へと結びつく合理的な文法論の構築」および⑤「文の本質の合理的な説明」などに関わってくるものです。語や句を含む文の構造がどのようにして文の意味に関わっているかを研究する分野を仮に「統語論」とするならば、時枝はこの論文において、自らの言語本質論の立場からまさに「統語論」を構築しようとしているといえるでしょう。
統語論に関しては、すでに時枝は、1937年1月脱稿の「文の解釈上より見た助詞助動詞」において、次のように述べていました。
ここで時枝は、「私は」における「私」と「は」の接続関係を形式的観点からではなく、意味的観点からとらえるならば、それは「加算法的」であると述べています。つまり、前者に接続する後者は意味的に何かしら異質なものとして存在しており、かつその意味的に異質な存在である後者が前者に加わることを意味しているのではないかと思われます。この後の論文「語の形式的接続と意味的接続」において時枝は、このような関係を「添加関係」であると述べています。次に時枝は、「怪しまる」の「怪しま」と「る」との接続関係を意味的観点からとらえるならば、「乗算的」であると述べています。この「乗算的」ということの意味は、前者に接続する後者は意味的に何かしら同質のものとして存在しており、かつその意味的に同質な後者が前者を含んだ状態で重なる(すなわち統合する)ことを言い表しています。そして、その場合意味的決定部は後者にある、とも述べています。意味的決定部は後者にあるけれども、両者は融合している、という認識があると思います。この「乗算的」という関係は、「語の形式的接続と意味的接続」においては、「統合関係」であると述べられます。このあたりの論述は、私も初めて読んだとき、「添加ってなに?」という感じで、あまり理解できなかったのですが、時枝が比喩として挙げている「畳語」と「複合語」の関係を考えてみると分かりやすいと思います。「畳語」の方は、「添加関係」の比喩であり、意味的に完全に融合することなく複数の概念を表しているけれども、「複合語」の方は、「統合関係」の比喩であり、意味的に完全に融合をし、一概念を表している、といえるでしょう(「うさぎうま」で「ロバ」の概念を表すなど)。ただ、「統合関係」の方は、接尾語などはそれ自身一概念を表しているといえるので、「複合語」と完全に一緒のようにとらえることはできませんが、ただ統語論の範疇において文を意味的に分析するという大きな観点からするならば、接尾語も含めて客体的な認識が統合されて意味的に或るまとまりを形成している、すなわちそれらは意味的に重なり合い融合している、ということはいえると思います。これに対して、「添加関係」の方は、複数の形式に複数の概念が対応しているという側面では「畳語」と同じ構造であり、文を意味的に分析する観点からいうならば、別々の性質の認識が「添加」されている関係ということになります。
次に時枝は、「文の解釈上より見た助詞助動詞」脱稿から四か月後、「語の形式的接続と意味的接続」において、日本語の接続関係を「形式的接続関係」と「意味的接続関係」とに分け、これまでの日本における接続関係の研究の対象は主に「形式的接続関係」であったが、これからは「意味的接続関係」について考察しなければならないとして、次のように述べます。
このように、この論文において、時枝が「添加関係」において上の語に「添加」されるとしたところのものは、実は「話手の志向作用即ち話手の立場、情緒、判断、意志等」だった、すなわち「添加関係」とは、客体的なものに主体的なものが付け加わった関係のことであった、ということが明らかになります。また、「下の語が上の語を統合して居る」「統合関係」とは、概念語が下の位置の概念語に意味的に一括りにされていると理解すると分かりやすいと思います。
「入子型構造形式」の原型
時枝はさらに続けて、以上のような意味的接続関係の二つの型について、その意味的連関のありかたを把握しやすくするために、次のような図形で表すことを提案します。
これは、1939年3月に雑誌『文学』発表の「言語に於ける単位と単語について」にて「入子型構造形式」と命名され、その後『原論』の文法論第三節「単語の排列形式と入子型構造形式」にて本格的に展開された、言語過程説の立場からする時枝独自の統語論の初出です。入子型構造形式とは、文中の語や句を意味的連関を重視した立場から分かりやすく図示したものです。上に「全く別の根拠」とあるのは、ようするに時枝自身の新しい詞辞論のことをさしています。
このように時枝は、自らが日本の伝統的な考えかたに即して構築した新しい詞辞論に基づいて、新しい独自の統語論を構築していきます。時枝による有名な辞による「総括機能」論も、この論文が初出です。
このように時枝は、添加的接続関係において添加されるものは話者の情緒、意志、判断など辞(観念語)であり、辞には上の詞(概念語)あるいは詞と辞の連結したものを総括する機能があるのであり、その総括されたものの構造を「連結的構造」と名づけます。そして上に《「は」「も」「む」は、夫々「春秋」「草花」「咲き乱れ」を一体として総括し、それ全体に添加されたものと考へなければならない》とあることからも分かるように、辞が被接続語全体に「添加」されるので、この意味的な関係を、時枝が「総括機能」と呼んでいることが知られます(1)。そして、この総括する機能を持つ辞の代表的なものが「助詞助動詞」であるというわけです。この、「助詞助動詞」に連結される詞や詞と辞の連結したものが、「添加的接続関係」の代表的なものということになります。
「零記号」の発見
では、この「添加的接続関係」が用言にどのように現れているか、それについて時枝は次のように述べます。
ここにおいて、時枝は初めて「零記号」の考えかたを披露します。数か月前に脱稿した論文「文の解釈上より見た助詞助動詞」において触れることのなかった(私の言うところの「宿題」であった)用言の陳述性について、具体的に述べています。「或る事実について思想の統一あることが、用言に寓せられて表現されて居る」というのですから、この時点の時枝は、用言は属性の表現と陳述の表現とを併せ持っていると考えていたと、一応はいえると思います。けれども、用言そのものが陳述を表現しているのではなくて、用言に零記号の陳述が添加されていた、それが「寓せられて表現されて居る」ことの意味だと思います。時枝の中でもいろいろな思いが錯綜しているのか、非常にゆらぎのある言い方ですが、叙述の全体の雰囲気からは、用言の本質は陳述にはないという、「国語の品詞分類についての疑点」以降における時枝本来の考えかたが伝わってくる感じがします。時枝によるこの用言の零記号という考えかたの源には、「文の解釈上より見た助詞助動詞」に端を発した「添加」の考えかた、すなわち「客体的なものに添加される何物か」、すなわち「客体的なものに添加される主体的な判断や感情」という、言語の本質に関わる根本的な考えかたが存在しているといえるでしょう。のちに三浦つとむは、時枝によるこの「零記号」という考えかたを、客体的なものも含めて、認識としては存在するけれども表現としては存在しないもの全般にまで敷衍して活用して文法理論を発展させています。
山田孝雄や三浦つとむのいうように、日本語の個々の単語は単一性的性格を持っており、それらを粘着的に連結して表現することが常態化しているので、すなわち属性の表現と判断の表現とが別々に表現されるというのが日本語の構造上の特質なので、そうした観点からするならば、用言に付随しているはずの肯定判断の表現が形式的に存在していない場合は、これを言語形式零とみて、時枝は■であらわし、「零記号」と名付けたというわけです(2)。用言において肯定判断の表現が言語形式零になっていることは、たとえば「寒い」「動く」などの用言が敬語化されると、「寒いです」「動きます」などと肯定判断の表現が言表化されることで知ることができます。
時枝はさらに次のように述べます。
このように、「助詞助動詞」や用言の零記号など辞(観念語)によって総括されたものは、すべて述語的であるという独特の考えかたが述べられます。ここで時枝は、用言の陳述作用について、「話者の最も単純な肯定判断の表現」であると述べていますが、この「単純な肯定判断」は実はすべての動詞や形容詞の表現の背後に存在しているはずのものです。三浦つとむの観念的な自己分裂の理論によると、動詞や形容詞に否定の「ず」「ない」や、想像の「らし」が続く場合でも、これらの判断がなされる前に一度世界は構築され肯定判断されなければならないからです。否定するには、否定する前に、否定する対象が必要になるというわけです。ですから表現主体は観念的に一度この対象としての世界へ行って肯定判断をし、そこからまた現実の世界へ戻ってきてそれから否定や想像の判断をするというわけです(3)。ですので、先ほどの例示は、次のように修正すべきものと思われます。
「形容動詞」について
続いて時枝は、用言と助詞助動詞の中間に位すると考えられた「形容動詞」について言及します。
この時期の時枝はまだ「形容動詞」説を否定してはいなかったので、その立場からの考察となっています。ここで時枝は、「形容動詞」と呼ばれるものについて二つの場合にわけて考えており、前者は「寒かり」「明らかなり」「燦たり」をそれぞれ一語(「形容動詞」)と認めず、「寒く――あり」「明らか――なり」「燦――たり」と、用言や体言と助動詞の連結したものと見る立場であり、後者はそれぞれを一語の「形容動詞」として認める立場です。『日本文法 口語篇』では、時枝は「形容動詞」を品詞として認めておらず、「寒く――あり」などは形容詞プラス指定の助動詞として扱い、「明らか――なり」などは「体言」プラス指定の助動詞として扱うようになっています(4)。この時期の時枝は、このように「形容動詞」についての認識にはゆらぎがあったようです。
「形容動詞」における属性と陳述性のありかたの特殊性
~「文の解釈上より見た助詞助動詞」の「修正・補記」その2~
時枝はさらに、「動詞」「形容詞」における属性と陳述性のありかたと、「形容動詞」における属性と陳述性のありかたとについて、次のような図式をあらわしています。
このように、この時期の時枝は、「動詞」「形容詞」の場合、陳述性は(属性と)併有されており、「形容動詞」の場合は、陳述性の結合によって一語となったことが示されている、ととらえていたようです。この「形容動詞」についての図式はもう少し具体的に記しておくと、「形容動詞」は成立時は結合したものであったが、成立後は一語となっており、その段階では陳述性は他の用言と同じく「併有」されているとみなす、ということです。
実はここで私は、第6節で触れた「文の解釈上より見た助詞助動詞」の「修正・補記」の内容を思い出しました。あそこで語られていたのは、実は「形容動詞」についてのことではなかったか、と思ったのです。もう一度、例の「修正・補記」の図と文章を挙げておきます。
今回「語の形式的接続と意味的接続」のこの部分を読み直してみて、この後半部分の「志向表現ハ同時ニ対象ノ概念的表現デアル」という説明は、まさに属性(対象)と陳述性(志向)との「併有」した状態のことをさしているのではないかと思い直したのです。しかも、さきほど引用した箇所の中に、「猶ここに一言すべきは、この両者の中間に位すると考へられる形容動詞の取扱に関してである」とあり、「対象」(用言)と「志向」(助詞助動詞)との表現の中間に「形容動詞」があるとはっきりと述べてあったからです。
前節で私はこの「修正・補記」における「対象」は「概念語(詞)」を、「志向」は「観念語(辞)」をさしており、ここの前半部分について、「概念語」と「観念語」の中間的な存在として、たとえば名詞の「驚愕」というような、話者の感情の概念化されたものとしての「概念語」というものがある、と解釈し、後半部分については、用言などはたしかに一見「概念語」のように見えるが、これとて実際の文においては何らかのかたちで「志向表現」=「観念語」的なものが同時に関わっているはずである、というふうに解釈していました。これはまちがいでした。修正します。
前半部分は、【「用言」と「助詞助動詞」との表現の中間に志向の概念的表現ともいうべき「形容動詞」が存在する】
後半部分は、【この「形容動詞」においては、成立時は陳述表現が属性表現に結合して一語となったものだが、成立後は、「用言」のように属性表現と陳述表現とが「併有」された状態にある】
連結的構造と包合的構造
時枝は、本稿において、辞(観念語)の「総括機能」や「陳述作用」による連結的構造と対をなすものとして、詞(概念語)による「包合的構造」について次のように述べます。
このように、すでに紹介した辞による「添加関係」が「文節」とは異なる意味的なかたまりとしての「連結的構造」を形成し、詞による「統合関係」が「包合的構造」を形成するのであり、この両構造形式はまた密接に関係しており、これらを分析することによって文の合理的な意味解釈が可能となる、と時枝はみずからの統語論について語っています。この「包合的構造」が、のちに、「風呂敷型構造形式」とも呼ばれ、またさきほど言及した「入子型構造形式」とも呼ばれるようになります。ちなみに、対象世界の表現であるはずの詞(概念語)に「包合的構造」を成り立たせる「機能」があるという上の時枝の考えかたに若干違和感を覚えますが、こうした時枝の表現は、言語を認識の反映ととらえずに話者による行為そのものととらえた時枝独自の考えかたによるものと思われます。
この「包合的構造」の発展形である「入子型構造形式」については、時枝によるもっとも優れた叙述が1940年2月に発表された「懸詞の語学的考察とその表現美」の中にありますので、それをここに引用しておきます。
《
ちなみに以上に紹介した辞によって総括されるという「連結的構造」は、『原論』前の初期の時枝の説明によると、図形としては〔〕で示されていました。
この「連結的構造」を示す〔〕は、『原論』以降図示されることはなくなりますが、時枝自身は、入子型構造形式にはつねにこの辞による「総括機能」、いいかえれば辞による「連結的構造」が存在するものとして想定していたものと思われます。
時枝の統語論に現象学の影響はあるか?
1937年5月4日脱稿の「語の形式的接続と意味的接続」から2年後の1939年2月2日脱稿の「言語に於ける単位と単語について」において、時枝は次のように述べます。
1937年脱稿の「語の形式的接続と意味的接続」において用言においては属性と陳述とは「併有」されていると述べていた時枝ですが、1939年脱稿の「言語に於ける単位と単語について」において時枝は、属性と陳述の「併有」説を捨て、辞に外側から詞を「包む」機能を認めるようになっています。時枝は、1938年9月8日脱稿の「敬語法及び敬辞法の研究」以降、「表象」や「概念」を言語の構成要素と見る立場を放棄して、現象学の影響を受けて、言語の意味は表現主体による「意味作用」によるものであるという主体的意味作用論を主張するようになっていましたが(5)、この「包む」という機能主義的な発想も、そうした主体的意味作用論の影響の表れといってよいかもしれません。
また、時枝の統語論における辞による「総括機能」論も、主体の側の「作用」や「機能」の面を強化した考えかたであるという意味では、現象学の考えかたが影響している可能性はあると思います。そういう意味では、「語の形式的接続と意味的接続」は、時枝の機能主義の初期段階の論文と位置づけられるものなのかもしれません。
(2023/1/15 脱稿)
(続く)
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[注]
(1) 辞に「総括機能」があるという時枝の考えかたは、三浦つとむによって次のように批判されています。
三浦つとむは、言語はすべて表現であり、表現はすべて認識の反映である、《「陳述の力」なるものは概念の発展であるが概念とは区別されるところの認識のありかた、すなわち判断にほかならない》(『言語過程説の展開468頁』)という唯物論的反映論の立場から言語に関する論文を発表していました。
(2) 山田孝雄は日本語の名詞について「名詞は単に事物の観念を裸体的にあらはすのみに止まる」(『日本文法学概論』)と述べていましたが、三浦つとむはこの「裸体的」性格は実は日本語全体の特徴であるとして、《膠着語とは、内容における「裸体的」性格と形式における「粘着的」連結とを相伴うところの言語形態なのだ、と規定することもできよう》(『認識と言語の理論 第三部』【勁草書房、1972年】104~105頁。太字は原文)と述べていました。私は、「裸体的」という表現を使い続けることに以前より若干疑問を感じていたので、この「裸体的」性格という言葉を次のように変換して規定し直したいと思います。すなわち、「日本語など膠着語は、内容における単一性的性格と形式における粘着的連結とを相伴うところの言語形態である」と。
(3) 三浦つとむ『言語学と記号学』【勁草書房、1977年】201~202頁。
(4) 時枝誠記『日本文法 口語篇』(【岩波書店、1950年】108~113頁。文庫版では142~147頁)。
(5) 拙稿「時枝誠記における『対象の展開』論 7」参照。