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『カラスは言った』(中央公論新社)渡辺優 著

 あなたは喋るカラスと出会ったことがあるだろうか?

「ある、ある、今日も聞いたよ」

 と言ったあなたが、小中学生なら私も「うんうん、そうだよね。ポケ●ンだってきっといるよ」と適当に話を合わせなくもない。

 だが、成人済みなら「私も一杯ひっかけてくるからお待ちくだせえ」と大五郎の4リットルをイオ●に小走りで買いに行かせてもらいたい。

 ん? 外へ買い物か。

 いやあ無理だ。買いに行くのは面倒くさいな。

 悪いね、やめとくわ。

 私は、だるだるのTシャツ一枚で、知覚過敏なので「ちくしょう痛い! だがしかしうまい!」とか言いながらあずきバーをがじがじ齧り、本を読んでいたい。つまり怠惰なのだ。

 というわけで、カラスと会話のできる青年の話なのにシラフで受け入れられる、そんな素敵な本を紹介させてもらおう。

 それは、『カラスは言った』だ。

 そのままのタイトルだね。

 主人公は、SNSやアプリ内の書き込みを監視する会社に勤めている二十代の男性だ。牛乳とニュースにアレルギーを発症し、かなり簡単に人を好きになっていい人だと思ってしまう、そんな人物だ。

 ある日、彼が一人暮らしをしているマンションのベランダに一羽のカラスがとまっていた。

 カラスは、じっと彼を見つめ、嘴を開き、こう言った。

『やっと見つけました』
 カラスが。
 カラスが言った。
 その声は、低く、ざらついて、それでいて穏やかだった。硯のような、声だと思った。
 僕はカラスを見つめた。
 カラスも僕を見つめていた。

 カ、カラスが、カラスが喋った!!

 だが、驚くにはまだはやい。カラスはさらにこんなことを口走るのだ。

『ヨコヤマ・アウスさん』
「え」
『第一森林線が突破されました』
「え」
『すぐに帰還してください。皆、あなたを待っています』
 カラスは小さく頭を下げた。
 なんとも静謐な一礼だった。

 第一森林線ってなんやねん。だがだが、もう少し待ってほしい。

 なぜなら、もっと大きな謎がここにはあるからだ。

ただ、ひとつはっきりしていることがあった。
僕はヨコヤマ・アウスさんではない。
僕は──。

 えっ、キミ、ヨコヤマさんとちゃうん!?

 じゃあ、誰なん。なんで、ヨコヤマさんと間違えられたん!?

 それを知るには、本書を読み進めていくしかない。というわけで読んでほしい。頼んだ。

 ただ、この「僕は──。」と僕は○○だと断言しない部分は、最後までこの小説を考えるにあたって、重要なワードとなってくる、と私は思う。

 べつに、主人公は記憶喪失でもなんでもない。本来なら自分の名前はすぐに言えるはずだ。

 だが、はっきりとここに書かなかったのは、自分が経験していることはすべて自分が主人公である「自分の人生」だと言えるのだろうか、という意味がこめられているように感じた。

 不思議なカラスとの出会いが、ヨコヤマさんを探す、そしてさらにヨコヤマさんを追う「追手」から逃げる旅へとつながっていく──。

 森林とヨコヤマさんとの関係、そしてカラスとヨコヤマさんとの関係が分かってくるにつれ、自分は「部外者」なのか、「関係者」なのか、そんなことを主人公は考えはじめる。

 部外者と関係者。

 この小説ほど奇妙な運命に出会わなくとも、ごくありふれた、瑣末な日常の出来事でも、自分が見聞きし、経験していると思い込んでいることは、果たして自分が主要人物なのか──そんなことを考えてしまったことはないだろうか。

 今、自分が経験していることに、私は部外者なのか、関係者なのか、そもそも自分とはなんなのだ、そんなことを考えれば考えるほど、不思議な感じがしてくる。あ、酔ってませんよ、私。人生をダメにするお薬もやっておりません。

「あたおか(頭がおかしい)だろ、お前! そんなことをいちいち考えなくても、自分の人生は自分が主人公に決まっているんだよ」

 なんて声が聞こえてきそうだが、そんなふうに思える人は、きっと恵まれた人なんだろう。私は「この場面、私は存在していないみたいだったな」なんて、モブ状態だったことが少なくない。

 とはいえ、自分の経験したことは常に自分が中心人物であり、自分が見聞きした言葉は一つ残らず自分に向けられたものである、なんて人もまあなかなかいないだろうけど。

 さて、ここでもう一つ、大事なことが。

 冒頭でサラッと流してしまったが、本書の主人公は牛乳アレルギーであり、ニュースアレルギーでもあるのだ。

 !!

 あぶねっっ! ニュースアレルギーって、メジャーな病ちゃうやん。説明不要みたいな感じで普通に書いていたけど、ちょっとびっくりなアレルギーよね。

 ある事件をきっかけに、主人公はニュースを受け付けない体になってしまったのだ。その事件以前の彼は、さまざまなニュースに対して我が事のように一喜一憂していた。自分のことでもないのに。

 さて、ニュースアレルギーに無縁すぎていまいちピンとこない私だが、ニュースとは、ほとんどのことが自分とは関係ないことであるにもかかわらず感情を起伏させ、ときにあまりにも自分と関係が深いのに他人事のように思えたりする。

 給料から引かれる税金の額に暗澹とした気分になり、さらに残った手取りから消費税や車などの税金を払い必死に節約生活をしているが、コロナ予備費一一兆円のうち九割が使途不明でした」なんてニュースを聞いても「ふーん」と流してしまう。一方で、所属しているわけでも勤務しているわけでもない事務所の問題に憤慨したりするわけだ。芸能人の不倫問題なんて、部外者以外のなにものでもない。ファンだろうと、なんだろうと、その芸能人のパートナーと不倫相手以外は関係のない話すぎる。


 いったい私は、なにに自分の人生の時間を消費しているのだ。

 というと、自分が関係者でないできごとには無関心であることが正しいと言っているように誤解を受けるかもしれない。だが、きっとこの『カラスは言った』を読めば、そういうことじゃないとわかるはずだ。

 人生のなにもかもが思った通りに行く人はそんなにいない。ただ、あらゆる出来事に憂慮する必要もない。そんなことを『カラスは言った』は教えてくれた。

 私は私の人生について考えてたい。そして、せめて大切な人の痛みがわかる人間になりたい。ものすごく遠回りしたけど。そしてこれからも、遠回りしてしまうかもしれないけど。いや、こんな私には無理なことなのだろうか。

 でも、カラスは言った。

『大丈夫です!』
 カラスの口元がそう動いた。声は聞こえなかったけど、僕にはわかった。大丈夫だと、くしゃくしゃに泣きながら確かにカラスは言った。

 無関係な人が、私の人生を批判してくる。なにか行動を起こせば、「どうせうまくいかない」と、なにもしない人が、転んだ私を見て、そらみたことかと嘲笑する。でも、転んだのは私だ。これは間違いなく、私の経験で、私の人生だ。

 きっと、カラスもそう言ってくれる。


 

 

 

 

 

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